一の酉が終った翌日のこと、十和田の冨永女将から電話があった。「うちに贈り物の本が届いてるわよ、あなたが書いてる「浅草」の《つれづれの記》に興味があって載せたんだって」
?なんて物好きなことを……頂いた本にビックリ、〝ギョロリ!〟大目玉の、『ルイ・アームストロング』サッチモの伝記と「浅草」がむすびつかず、ニッチモサッチモゆかなくなった。ところが、頁を捲り始めたら面白いのなんのルイ・アームストロング世界的研究者であり、ディズニーランド開設時からの出演、浅草ジャズクラブ「HUB」でおなじみ、外山喜雄氏・外山恵子氏共著による◇生誕120年・没50年に捧ぐ『Louis・Armstrong 』。
ーサッチモは昭和28年(1953) 、昭和38年そして前回オリンピックが開催された昭和39年と3度来日している。国際劇場に出演する度に日本贔贋となり浅草の魅力にハマッてゆく。
私がルイ・アームストロングの音楽にふれたのは、1959年に公開された、コルネット奏者レッド・ニ
コルス物語を映画化した『五つの銅貨』である。サッチモが客席のダニー・ケイ(ニコルス役)に「おい若いのステージに上れ、一緒にやろうぜ!」、アームストロングのコクのある演奏と二人の掛け合い「聖者の行進」。感激の臨場感は今も脳裡に焼き付いている。若い方にはぜひDVDでご覧になって頂きたいと思う。
◇ルイ・アームストロングが唄う、世界的なメガヒット「この素晴しい世界月♬~」WONDER-FUL-WORLD。本来トランペット奏者でありながら、独得のダミ声ヴォーカルで人気を博した。愛称は〝サッチモ〟(ガマぐち)。
ステージや映画での陽気な人柄。世界中の人から愛されたサッチモに、思いがけない災難が襲ったのが1952年、悪名高いリトルロック事件の勃発である。黒人への不当な扱いに彼らは怒り、正当な権利を主張する。
ルイも公然とアイゼンハワー大統領に、「人権政策はなっていない!」と抗議する。ところが政府はそれらの声を逆手に巧妙な作戦をとった。実はこの機に乗ずる共産主義が、黒人グループに浸透する動きを見せていた。そこでルイ・アームストロングに、非公式な移動大使になってもらい、国際的な批判をかわすために、微妙な問題を抱える世界各地で、ジャズコンサート活動を開くことになる。日本公演もその一環だった。
浅草国際劇場では、昭和27年に「テネシーワルツ」のヒットで渡米した、江利チェミとの再会もあり共演は大盛況!サッチモブームを巻き起こした。浅草の通りをニューオリンズで行われるような、車の上から演奏パレードをやった話も残っており、同じ下町育ちの彼は浅草の庶民文化に〝ゾッコン〟。来日でハマッタ浅草グルメの逸話とは……。
私が国際劇場に特別な愛着を持つのは、昭和30年代に至近の田島町に住んだことによる。東京踊りをはじめとするグランドレビュー、100人のロケットガールズがくり出す大スペクタル。海外勢ではサッチモやペレス・プラードの強烈なリズムが楽屋口の裏通りに響いてくる。勝手に無料演奏を楽しんだものである。
ーここからは『ルイ・アームストロング生誕120年・没50年に捧ぐ』を出版された外山夫妻が本に載せてくださった内容を紹介したい。
『この原稿の締め切り間際、ジャズ評論家の高木信哉さんから「浅草」という小冊誌が突然届いた。田中けんじさんの連載「あさくさつれづれの記」の中に、「1953年サッチモが来日した当時、浅草国際劇場横にあり、百匁(360グラム)とんかつで有名だった《河金》にハマッテいた。」という記事を知らせて下さったのだ。
「つれづれの記」にはこうある……《河金》にフラリ、サッチモがやってきた。ニューオリンズの下町育ちは『丼(ドンブリ)』に思案顔……「コレワ和食デスカ?洋食デスカ⁇」、フタを開ければご飯の上に千切キャベツ、カッレツを載せ、カレーをかけた浅草名物《河金丼》。たまらずかっこんだ!〝ドンブリウマイ!!〟、以来公演の度に楽屋に出前させ、百匁とんかつともども舌鼓を打っていた。帰国後、「河金洋食はうまかった。」と丁寧な手紙を寄こしている。(百匁とんかつ考案者・2代目、河野清光氏談93歳没)
◇こんなサッチモらしい面白い話が、サッチモの悪戯のように締切間際に舞い込んできた。また、とんかつ屋さんにまで手紙!とは、サッチモの人柄と、いかに書くことが好きだったかが良くわかって感激する。』
—ラーメンも好物だったようで、国際楽屋で器用に箸を使うサッチモ(冒頭写真右側)、チリチリ麺に懐かしい丼、来集軒の出前だろう。当時は国際により近い飯田屋隣りにあった。68年前、偉大なミュージシャンは人知れず〝工ンコの味〟を楽しんでいたのである。
(令和4年1月号掲載)
田中憲治 デザイン事務所「レタスト」http://www.letterst.jp/profile/index.html
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