吉原のある日つゆけき蜻蛉かな浅草にうつりて蚊帳のわかれかな 万太郎先生と浅草とは切っても切れない。明治22年(1988年)浅草区田原町3丁目で生まれた万太郎は、大正3年5月に同区駒形に移り住んだ。大正7年隣家から火事が出 […]
続きを読む浅草誌半世 名随筆の足跡
浅草誌半世紀・名随筆の足跡<第13回>・近藤富枝「豆売りのおばあさんと荷風と」|月刊浅草ウェブ
浅草といえば観音さま。観音さまというと鳩の豆売りのおばあさんが思われる。下町育ちのわたしの古いアルバムには観音さまの境内で鳩に豆をやっている写真がある。たぶん二歳くらいだろう。赤と思える麻の葉模様のしぼりのきものを着て、 […]
続きを読む浅草誌半世紀・名随筆の足跡<第12回>・瀬戸口寅雄「昭和座の兵隊劇」|月刊浅草ウェブ
大阪の吉本興業が、東京浅草に進出してきたのは、昭和三年であった。遊楽館についで、昭和座を手に入れ、梅沢昇一座や金井修一座の剣劇をやっていた。東京吉本を経営しているのは、常務の林弘高氏(現在の社長)で、一時は日活の前専務江 […]
続きを読む浅草誌半世紀・名随筆の足跡<第11回>・瀬戸口寅雄「女左膳の頃」|月刊浅草ウェブ
林不忘の小説「新版大岡政談」は、日活、マキノ、東亜の三社が競映、丹下左膳として大当たりに当たり、一篇、二篇、三篇と制作したが、実演でも大騒ぎであった。大阪道頓堀の浪花座では、歌舞伎の坂東寿三郎の左膳、霞仙の櫛巻お藤、角座 […]
続きを読む浅草誌半世紀・名随筆の足跡<第10回>・瀬戸口寅雄「活弁時代」|月刊浅草ウェブ
明治四十年ごろの、浅草公園の地図をみると、一区から七区になっていて、一区はいうまでもなく、金竜山浅草寺から発している。二区は時の鐘で知られる弁天山あたりで、区役所通りにある料亭「宇治の里」が、二区にあった。伝法院裏に公園 […]
続きを読む浅草誌半世紀・名随筆の足跡<第9回>・玉川一郎「記憶の浅草」|月刊浅草ウェブ
東京の最大の大洪水(おおみず)が明治四十二年で、その翌年の暮れに、併合されたばかりの朝鮮に父親が警察官として赴任した。当時は下谷の車坂に住んで居た両親と二歳半の妹と、私の四人が、瓢箪池の藤棚の下で、本郷の伯父や従兄たちと […]
続きを読む浅草誌半世紀・名随筆の足跡<第8回>塩田丸男「浅草を叱れない」|月刊浅草ウェブ
東京の人間は、浅草を〝郷愁の町〟という。だが、私のように、東京にあこがれて家で同様にして上京してきた人間(こんな人間は今も多いだろう)にとっても、浅草は、同じように、いや、それ以上に 〝郷愁の町〟 なのである。 私の場合 […]
続きを読む浅草三話<第3回>瀬戸口寅雄(せとぐちとらお)|月刊浅草ウェブ
【十二階の美人投票】 絵葉書になった美人に、新橋芸者の二代目お妻がいる。もちろん、明治の話で、木村錦花(きんか)先生に教えてもらったのだが、お妻が全国的に知られるようになったのは、浅草十二階の人気投票からである。 お妻は […]
続きを読む浅草三話<第2回>瀬戸口寅雄(せとぐちとらお)|月刊浅草ウェブ
【忘れ得ぬ人と品】 本箱の中の整理をしていたら、ほこりをかむったインキ(インクとも云う)スタンドが出てきた。三十年も前、木村錦花(きんか)先生から贈られたものだが、壊れてしまってからも、捨てるのが惜しくて、本箱の中に大事 […]
続きを読む浅草三話<第1回>瀬戸口寅雄(せとぐちとらお)|月刊浅草ウェブ
【新派の誕生】 川上音二郎が堺市の卯の日座で、川上書生芝居の旗揚げをしたのは、明治二十四年であった。音二郎の目的は、東京公演にあったから、ちくじ東上、六月には浅草鳥越の中村座に乗り込み、初御見栄の公演にこぎつけた。 興行 […]
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