浅草誌半世紀・名随筆の足跡<第9回>・玉川一郎「記憶の浅草」|月刊浅草ウェブ

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東京の最大の大洪水(おおみず)が明治四十二年で、その翌年の暮れに、併合されたばかりの朝鮮に父親が警察官として赴任した。
当時は下谷の車坂に住んで居た両親と二歳半の妹と、私の四人が、瓢箪池の藤棚の下で、本郷の伯父や従兄たちと落ち合って「活動」を見たのが、私の浅草に関する記憶の始まりである。父の出発の壮行会みたいなものであった。

私は明治三十八年十一月生れだから、その時は五才にもなっていないワケなのに、映画の題名が「おめでとう」と言うのであったこと、掛け取りの目をくらまそうとして主人公が押し入れの中にかくれて居たこと、弁士が「大山さん」と言う人であった事を今でもハッキリおぼえている。
後に聞いたのだが「大山さん」と言うのは日露戦争で名を轟かした大山元帥に顔が似ているためのアダ名であったとか。
客が「大山さん。大山さん」とかけ声をかけたのも覚えて居る。

本郷の伯父の家に泊まったりすると、従兄姉たちが、私を送りがてらに浅草に通う道筋はきまっていた。
本郷三丁目から赤門をくぐり鉄門(大学病院の門)に出る。岩崎邸に沿う無縁坂(鴎外の雁で有名)を下って不忍池の観月橋を渡り、斜めにまっすぐ行くと、今はボーリング場になっているかつての松竹座、その頃の御国座(みくにざ)につきあたるのである。

御国座に行く迄の右側に、色電気の一パイ点いた店があって、一銭で、おしるこ、レモン水、ハッカ水、イチゴ水などが、コップに一パイ飲めるのだ。
コップを洗う水道の栓にも私は手が届かなかった。去年亡くなった安藤鶴夫君は私より三つか四つ下だが、彼の記憶では二銭だったと言うが、日露戦争のインフレみたいなものが、当時の物価に影響した証拠のような気がして面白い。

父が赴任した翌年、母と私と妹は渡鮮したが、大正四年、尋常四年の私だけが又東京に戻って来て、祖母の膝元から本郷元町小学校にはいった。
この時代はほとんど浅草に通っていない。従兄姉達は、もう私が荷厄介だったらしい。

大正九年の春、京城中学から本郷の京葉中学に転校してからが、私の一番楽しい浅草時代となる。
ペラゴロと言われた人達は、当時中学三年生である私より三つ四つ上の人達であったのだろう。
又、両親のもとから離れて、祖母や伯父の家に預けられている淋しさをいやしてくれるのは浅草であったが、人一倍チビであった私は、仲間もつくらず一人で「三館共通」などで終日暮らしていたのであった。
曾我廼家五九郎一座の「金竜館」連鎖劇などの「常盤座」活動写真の「東京倶楽部」この三館の客席のうしろに通路があって、十銭玉(今のカネにして百五十円か二百円か)一つで、どこに行っても、いつ迄見ていてもいいのだ。
五九郎一座で覚えている俳優は、橘花枝(のちにはダイヤモンドの入れ歯をしていた)泉虎(いづとら)、一二三(ひふみ)、団福郎(だんふくろう)、泉蝶(せんちょう)などと言う人々。
東京倶楽部は、年末になると必ず「ニコニコ大会」と言って、喜劇映画の大会をやった。

神谷の電気ブランの味をおぼえたのは、大正十三年に東京外語(現在の東京外語大学)にないってからである。
一合とは言うものの八勺くらいはいるコップにつがれた電気ブランは一杯五銭で、三杯までしか飲ませなかったが、一遍外に出て、はいり直せば又飲めたが、私も三杯以上のレコードはない。二杯目の終りあたりからモーロ―として三杯目もみんな飲んだかどうか。

あの頃の浅草は、「埼玉県浅草区」ではなかった…。

【作家・玉川一郎~昭和45年6月号掲載~】

※作品の転載を固く禁じます。



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