浅草誌半世紀・名随筆の足跡<第10回>・瀬戸口寅雄「活弁時代」|月刊浅草ウェブ

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明治四十年ごろの、浅草公園の地図をみると、一区から七区になっていて、一区はいうまでもなく、金竜山浅草寺から発している。二区は時の鐘で知られる弁天山あたりで、区役所通りにある料亭「宇治の里」が、二区にあった。伝法院裏に公園事務所があって、現在の奧山庭園附近が、三区だ。水族館やひょうたん池附近が四区、昔ながらの奧山あたりが五区、映画館や劇場などがズラリ並んでいるあたりが六区、区役所通りの「アンヂェラス」から常盤堂雷おこし仲見世を越して「今半」「金田」方面が七区である。

大正のころ、雷門の前あたりに、「アメリカ」と「ヨカロウ」という、有名なカフェーがあって、美人女給が揃っていた。当時の映画は無声だから、活弁が文化の先頭にあって、先生、先生といわれていた。その活弁先生が毎夜のように、カフェーに現れた。俳優も、文士もやって来て、美人女給を張った。関東大震災のずっと前、「ヨカロウ」の看板女給は、田圃の太夫で有名な歌舞伎俳優沢村源之助(現在の 沢村源之助 ではない)が射落したが、「アメリカ」の方は、常連の熊岡天堂、国井紫香、津田秀水、松竹音楽部々長島田晴誉らが、ナンバーワン女給かおるを狙ったが、これは、熊岡天堂のものとなった。学生だった私は、熊岡天堂、石井春波、 津田秀水 、静田錦波、加藤柳美、犬養一郎等々に可愛いがられたが、なかでも国井紫香は俺の弟子にならんかといった。

国井紫香は、浅草生まれと思っていたら、そうではない。江戸時代、「かねやすまでが江戸のうち」と歌にうたわれた、本郷三丁目の「かねやす」の二十代目だ。国井は帝国館で時代劇専門の人気活弁士だったが、私が帝国館に行ってみると、国井が説明のさいちゅう。ところがいつもの名調子が出ない。始終ジメジメしていて、泣くべきところではないのに、泣いている。おかしいから楽屋に回ってみると、巡査が張番をしていた。弁士見習いを呼んで、小声にきいてみると、昨晩バクチで御用になり、象潟署に留置されたが、司法主任の情で、巡査に曳かれて帝国館に行き、手錠のまま説明しているのだという。手錠のままでは、悲しいだろう。説明がおわって、巡査に曳かれて留置所に帰って行ったが、見送る私には、いいようのない笑顔で、手錠をチャカチャカいわせた。行ってくるぞーと手を振ったのだろう。国井は、三日目に釈放された。

【作家・瀬戸口寅雄~昭和45年5月号掲載~】

※作品の転載を固く禁じます。

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