本というのは実に不思議なもので、読む気分にならないとどんなに素晴らしい文章だとしても読むことはできない。
それは小説だろうが、論文だろうが、エッセイだろうが、読めない時はどうしても読めないのだ。そこで私は、どうしたら自分の心が「読む気分」になるのだろうかを考えた。そうして編み出したのが、脳内で好きな語り口調に変換して読むという読書法だった。
私の長年のお気に入りは、俳優の江守徹さんと、落語家の桂師匠の語りである。江守徹さんを好きになったきっかけは、新潮カセットブックの「アマデウス」という朗読だった。どんな場所にいても、どんな心境の時でも、一旦再生ボタンを押せば、即座に物語の中に没入させられてしまう。苦手だったクラシック音楽を聴き始めたきっかけもこの「アマデウス」だったし、私の性格的に、一度好きになったら飽きることはないので、今も「アマデウス」の再生ボタンを押すワクワク感を体が覚えている。「アマデウス」のような語り口調で江守徹さんが話し始めたら、私は全ての思考を止めて耳を傾けることだろう。
桂枝雀師匠については、彼の語りがとにかく大好きで、私の活弁スタイルの目指すところでもある。特に「地獄八景亡者戯」を収録したCDは、大学院への通学中、毎日聴いていた。
家の最寄駅で再生ボタンを押すと、ちょうど大学の門前で話が終わるから、その時間感覚も気持ちが良くて、一年間ほど私の生活の一部だった。気がつけば、いつでもどこでも頭の中を「枝雀モード」に設定できるようになっていた。
難しい論文も、枝雀師匠が喋れば面白く聴こえてくるから不思議だ。一応補足しておくと、普通の読書もできる。「枝雀モード」で読書すると、彼の声の再現だけではなく、独特の笑い声も聴こえてきて騒がしいし、しょっちゅう話が脱線する。結果的に読むのに時間がかかるので、ある程度内容に夢中になってきたら、通常の読書法に戻すことが多い。
いささか前置きが長くなったが、最近その語り口調の枠に新たな人物が加わった。ミステリー小説界の大御所で「ゴッドオブミステリー」と称される島田荘司先生である。ひょんなご縁で、島田先生原作の映画『乱歩の幻影』(2024年封切、秋山純監督)の制作協力をさせていただいたのだが、先月成田市で行われた『乱歩の幻影』の上映会に私を呼んでいただき、島田荘司先生と秋山純監督と壇上でトークするという好機を頂戴したのだった。
人生で初めて「小説家」という生き物と出会った私は島田先生に興味津々だった。どんな幼少期を過ごしたのか、最初から小説家になりたかったのか、小説を書く上で「体験」を必要とするタイプの小説家なのか、朝のルーティーンのような習慣はあるのか…。よほど器の大きい人でなければ、面倒くさいと一蹴しただろう質問の数々を、先生は、時にミステリー小説史や浅草という街の歴史や文化に触れながら、丁寧に答えてくれた。
声は低く、即座に歌が上手いとわかる良い声、流れるように口から出てくる言葉は全てが小説的であった。この「小説的」の正体については、また別の機会に考察してみたいが、ともかく「島田荘司」という思考があり、語り口調があった。もしも、私がどんな文章でもミステリーにしてしまう「島田荘司」という語り口調を脳内に取り入れられたらどんなに面白いだろうか。
――私がこれからお話しいたしますことは、にわかには信じがたい、少々異常なお話です。ですから、かく言う私自身、信じてはおりません。あの、…さんご自身に関するお話なのですから(島田荘司『乱歩の幻影』より引用)
こんな調子で語られたら、いかに難しい論文だとしても問答無用で引き込まれていくに違いない。
最後に、成田でのトークショーで島田先生が「子八咫さんをモチーフにしたミステリー小説を書きたいですね。表紙はあなたでね」とおっしゃられた。私は地球の裏側まで貫通してぶっ飛ぶほど驚いた。星の数ほどあるアイディアの1つなのだろうが、人々に刺激を与える「ミステリー作家」の鋭い刀の切先を垣間見た気がした。