江戸の末期文政12年2月5日、この日女性として初の藍綬褒章受章者、瓜生岩子が誕生した。
福島県喜多方市、会津藩で油商を営む渡辺利左衛門・りえ夫妻の長女として生を受けた岩子は、何不自由無い幼少時代を送っていた。3年後には弟の半次も生まれた。しかし、父親が9歳の時病気で死に、その49日の法要が終わった日に家が火事で焼失、彼女の波乱に満ちた人生の幕開けとなる。
喜多方から8キロ程北へ進むと、押切川に沿って三方を山に囲まれた温泉地、熱塩温泉がある。その昔、弘法大師によって発見されたと云うこの温泉は、熱くて塩辛いことから熱塩の名が生まれたのだと云う。
岩子の母りえの実家は、熱塩温泉の「山形屋」と云う温泉宿だったので、母子は仕方なく実家に身を寄せる事になる。14歳になった時、叔母の嫁ぎ先、医師の山内春瓏の許で手伝いをしながら医術の心得を学ぶのだが、これが後年岩子の活動に大きなちからとなっていくのである。
17歳にで結婚し4人の子宝に恵まれるが、夫が40歳で死に、頼みの母も追うように黄泉の国へ。絶望に打ちひしがれた岩子は、生きる気力を失い呆然自失の日々を送るが、菩提寺でもある示現寺(じげんじ)の住職のひと言が、彼女の生き方を変えたのである。
「世の中にはお前よりも、もっと不幸な人が沢山居る。その人達に情(なさけ)の全てをかけなさい。お前にはそれが出来る。それが仏の道だ」
この時38歳、新しい岩子の誕生となっていった。
江戸から明治へと移る激動の時代。戊辰戦争で大きな打撃を受けた会津藩の戦傷者の手当てや、親を失った子供たちの世話、旧藩士の弟子の為の幼学校建設に奔走したり、寝食を忘れての活動は、年を重ねる毎に広がっていったのである。
日本のナイチンゲール、そしてマザーテレサと云われる所以がここにある。
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