残照・吉原衣紋坂<第12回>懐かしの浅草芸能歩き|月刊浅草ウェブ

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朧夜やまぼろし通ふ衣紋坂 子規

坂道の多い江戸、東京にあって、隅田川沿いの浅草は低地で名のある坂が少ない。その中で、正岡子規の句に詠まれた衣紋坂はかつて日本堤と吉原遊郭唯一の出入り口、大門(おおもん)を結ぶ道として知られていた。今も地名が残る日本堤は江戸初期に今戸橋から箕輪(三ノ輪)まで築かれたが、場所の特定は難しいようだ。諸国大名の力を集めて築いたので日本堤、また二本の土手から名づけられたともいう。

吉原通いの経路にもなった山谷堀が堤の北側を流れ、大門近くに日本堤橋があった。橋から〝土手(八丁)〟に上がり、いよいよ廓へ下っていく時、多くの人が衣紋(身だしなみ)を整えたのが坂名の由来といわれる。堤から大門口まで五十間(一間は1.8メートルあまり)の距離だったことから、五十間道の名も生まれた(道の両側に茶屋などが五十軒並んでいたからという説もある)。

土手通りから大門跡まで、昔と同じカーブを描く五十間道。

日本堤橋は関東大震災の被害で姿を消した。土手と坂も震災後に崩され、現在は「土手通り」が名残をとどめるばかりだ。そこで消えた衣紋坂の痕跡をさがそうと、改めて歩いてみた。日本堤橋跡の地点に見当をつけ、土手通りを何度か往復したものの体感としては平坦。実感が出てきたのは見返り柳を過ぎ、緩やかに下りながら「くの字」に曲がる旧五十間道に入ってからだ。

道のカーブは昔と変わらない。三間の高さがあった土手から真っすぐな道では急勾配のため、カーブにしたという説もあるが、実際に歩いた感覚として、いま少し大門まで時間をかけて歩くようにしたかったのではないかという気がする。同時に、すでに多くの解説があるように廓への期待を高めて外界と隔てる演出の一つ、また官許とはいえ幕府への配慮も働いたのでは、とー。

江戸後期、嘉永6(1853)年の地図を見ると、この湾曲した道に「エモン坂、大門、中ノ丁」の記載がある。また、石川悌二著「東京の坂道・生きている江戸の歴史」(新人物往来社)には「化粧(けわい)坂」の項があり、「現在の地方橋のところから向う土手をわたって吉原にゆく道を化粧坂とよんだ」と述べられている。地方(じかた)橋は日本堤橋のひとつ下流で、現在消防署があるあたりに編笠茶屋(遊客が顔を隠す編笠を貸し出し、案内所を兼ねた)が並んでいたようだ。さらに別の資料によると、さらに下流の山谷堀橋から土手を下る道を「禿(かむろ)坂」といい、浅草寺、馬道方面から通う経路にもなっていた。

化粧坂といえば鎌倉古道の一つ、そして歌舞伎や舞踊で曽我五郎の恋人として登場する遊女、化粧坂の少将を思い出す。禿は遊女見習いの少女だが、刑死した白井権八(実名は平井)の後を追った遊女小紫に続き、入水した禿の物語が伝わる桐ケ谷(品川区)の禿坂を連想する…。

にわか芝居に匂いがする話になってきたが、日本堤と関連付ける確証はない。廓へ向かう坂道は子規が詠んだように〝まぼろし〟となった。しかし土手通りの内側、旧吉原遊郭の主な区画は今も変わらず、静かに時を刻んでいる。

(写真/文:袴田京二)

※掲載写真の無断使用を固く禁じます。

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