さて、話を元に戻しましょう。
萩本と坂上が出逢ったきっかけは、同じ建物内の上下で営業していたフランス座と東洋劇場で、所属の芸人をトレードしてみてはどうかという案が持ち上がったことでした。この時に萩本がフランス座へ配属され、二人は同じ舞台に立つようになったのです。
実は当初は、坂上がツッコミで萩本がボケ役だったんですよ。ところが、これが全くウケない(笑)。それで役割を逆にしてみたら、俄然面白くなったのです。アズハチ譲りのこれでもかという容赦ないツッコミと、アベショウ仕込みの徹底したボケの応酬。それぞれが水を得た魚のごとく本領を発揮し、素晴らしいステージを展開するようになったのです。
7歳の年齢差にも関わらず、彼らの相性はとても良好でした。坂上は萩本が遠慮なく力を発揮できるよう、いつもさり気なく配慮していましたし、萩本もそんな坂上の気持ちを十分に汲み、舞台では思いきり暴れつつも、一歩ステージを下りれば先輩を立てることを忘れませんでした。互いを思いやる懐の深さと聡明さを兼ね備えていた二人は、やはり大成する器を持っていた、ということなのでしょうね。
やがて連れだってキャバレーでのショクナイにも出向くようになった彼らは、ここでもまた最高の掛け合いを見せ、大人気となります。萩本がツッコみ、坂上がトボけ、酔いどれの客が野次る。そこで坂上がすかさず得意の歌を歌い出し、萩本がおどけて踊る…。それがまた絶妙で、面白いのなんのって(笑)!
こんな彼らの芸が、評判にならないはずもありません。あるとき、某テレビ局の敏腕プロデューサーが噂を聞きつけ、スカウトにやって来たのです。萩本へのCM出演依頼でした。初めてのビッグチャンスに意気揚々と挑んでいった彼ですが、ここでまさかの大失敗をやらかしてしまいます。あろうことかNGを連発し、プロ失格の烙印を押されてしまったのです。大勢のお客さんを目の前にアドリブで演じる浅草喜劇と、カメラに向かって厳密に書き込まれた台本の通りにこなす予定調和のテレビ向け演技とではあまりにも勝手が違い過ぎて戸惑ってしまい、本来の実力を発揮することが全く出来なかったのですね。
◆失意のどん底から一転!芸能史に残る名コンビ・コント55号誕生
テレビ界進出への夢が途絶えて行き場を失い、一時はどん底まで落ち込んだ萩本でしたが、こんなことで駄目になったりはしませんでした。
「テレビは、もういい。初心に帰ろう。浅草に骨を埋める覚悟で、また一からやり直そう。」
日々厳しい修業に耐え、先輩たちに叩き込んでもらった浅草芸人としての誇りは、いつしか彼を不屈の男に変えていました。あのあどけないばかりの少年だった”欽坊”は、もはやどこにもいなかったのです。
久しぶりに坂上から電話があったのは、そんな矢先でした。聞けば坂上もまた、テレビ出演の話を貰ったものの全くモノにならず、散々な目にあって追い返されてしまったというではありませんか。皮肉にも、こんなところまでぴたりと息の合ってしまった二人(笑)。苦笑しつつも互いの健闘をねぎらい、これからはまた浅草で一緒に頑張ってゆこうと、誓い合ったのです。
ところが、運命とは実に不可思議なもの。笑いの神様は、なんていたずら好きなのでしょう。再び浅草の舞台に立ち、以前にも増して研ぎ澄まされた芸を見せるようになった彼らに、とんでもないご褒美をプレゼントしてくれたのです。
それは、日劇への出演依頼でした。当時のコメディアンにとって、日劇出演は出世コースの最高峰。しかも、本来ならば日劇ミュージックホールという前段階を経て、そこで成功を収めた者だけが踏める大舞台に、一足飛びに上ってしまったのですから、これには私も本当に驚かされました。そして、大きなプレッシャーをものともせず見事に日劇の客席を沸かせた二人は瞬く間にテレビ界の注目を集め、ラブコールが殺到するようになったというわけです。まるで以前の失敗など、何もなかったかのように(笑)…!
このような流れで誕生したコント55号は、あれよあれよという間に時代の寵児となってゆきました。そしてその後の活躍については、言わずと知れたところです。
それにしても、一生浅草で頑張ると覚悟を決めたとたん、まるで何かに導かれるように中央へ出てゆくことになってしまった二人は、もしかしたら浅草に対して、後ろ髪ひかれる思いを残していたかもしれませんね。
けれどそんなことは、ちっとも気にしなくて良いのです。何故ってそうなったのは、時代が浅草の笑いを求めてくれた、ということなのだから。榎本 健一ことエノケン以来脈々と引き継がれてきた浅草伝統の素晴らしい芸を、われらが欽ちゃん・二郎さんが代表し、テレビとの架け橋になって全国に届け、沢山の人を笑顔にしてくれたのだから。
浅草の仲間はみんな、その成功を祝福し、誇りに思い、心から感謝しているのですよ。
さて、二人が浅草を去ることになった昭和40年代前半、東京オリンピックを経て時代はいろいろな意味で転換期を迎え、六区興業街も世間の動きに大いに翻弄されることとなります。そしてフランス座は、二度目の大きな方向転換に着手することになるのですが…。次回はその辺りのいきさつから、お話してまいりましょう。
松倉久幸(浅草演芸ホール)
(口述筆記:高橋まい子)
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