「沢 竜二(さわ りゅうじ)」の波乱万丈俳優記<第2回>|月刊浅草ウェブ

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<其ノ二~プロローグ・後編~>

隣家からのもらい火で焼き出され、下宿させてもらうことになった先は、豆腐屋さんの2階。しかしここでの生活も、安泰というわけにはいかなかった。
自宅のみならず劇場まで全焼し、仕事の拠点を失ってしまった両親は再び旅回りの生活に戻り、私に生活費を送ってくれたが、客の入りには波がある。不入りが続けばおのずと仕送りも滞り、不安な日々を余儀なくされることもしばしばだった。そんな時は、持ち前の運動神経を武器に、村の相撲大会で五人抜きをして賞金を稼ぐという離れ業なんぞ、やってみせたりもしたが(笑)。

豆腐屋さんは、夜になると飲み屋になる。ホステスのお姉さんがやってきて、酔っ払いとワイワイ騒ぎ出すのだ。
中三のスポーツ少年だった私は、放課後いくつもの部活をハシゴしていたのだが、へとへとに疲れて帰ってきてもこの有様じゃ、騒々しくてまともに寝られやしない。それだけだって悪影響なのに、ある日、信じられない事が起きた!なんとホステスの一人が、やっと寝入った私の布団に潜り込んできたのだ。
いくら何でもこれはまずい…危険を察知した私は這々の体でこの場を切り抜け、お世話になったのに申し訳ないとは思いつつ、豆腐屋さんから逃げ出した。

父が久留米に家を買ったので、しばらくそこから学校へ通ってみたが、なんせあまりにも遠すぎる。早朝5時発の貨車に乗らないと、始業に間に合わないのだ。それじゃ可哀想だということで先生が新しい下宿先を見つけてくれたのだが、そこは、学校まで片道6キロもある山の上の同級生宅。長く険しい山道の往復はきつかったけど、今、この歳になっても役者として舞台に立てる強靭な体の基礎は、この時培われたに違いない。そう思う時、人生には無駄な経験など一つもないのだと、あらためて感じ入る。
こうして慌ただしく多感な中学時代は過ぎていったが、まだこの頃は相変わらず、大人になったらスポーツで身を立てるんだと、無邪気に夢見ていた。

芝居に気持ちが傾いたのは、16歳の時だ。役者になる決意を固めると、大学進学を望んでいた父の期待に背く切なさを振り切り、高校を2年で中退して母の「女沢正一座」に飛び込んだ。
座長の子といっても、特別扱いは一切なし。裏方仕事から始まり、やっと台詞が貰えるまで丸2年。辛さを感じる暇もないほど、無我夢中な修業時代だった。

役者になりたての頃は田舎の港町なんかを回ってたが、そこは血気盛んな17歳のこと。しばらくするとやっぱりレベルの高い所で実力を試したくなり、大衆演劇の本場といわれていた北九州地区へ繰り出していった。

はじめは不入りが続いたものの、当時まだ誰もやっていなかった劇中に歌を取り込むスタイルを考えたり、歌いながら立ち回る“ロカビリー剣法”を編み出したり…周りの評価は気にせず自分の信じた芝居を貫いていたら、徐々にお客さんが増え始め、気が付いた時には人気に火がついていた。今でいう、“ブレイク”といったところかな。それで今度は、九州から関西へと進出したのだ。
関西では東映から声がかかり、撮影所に入ったのはいいけれど、だんだん自分の気持ちの中でズレが生じ始め、悩んだ末に一座へ戻ることを決めた。
復帰後は、私が留守にしていた間座長を務めてくれた樋口次郎と三河家桃太郎の三人で回ることにしたのだが、なんとまぁ、これが大当たり!溢れんばかりのお客さんで、連日大盛況…その時の人気たるや、本当に驚くばかりだったね。そんな目まぐるしい時代が、何年続いただろうか。今振り返れば、まさに青春そのものだったと思う。

そして26歳の時、後の運命を変えるほど、衝撃的な映画を観る。ジョージ・チャキリスの『ウエストサイド物語』だ。この出逢いが、私の上京への想いに火を付けた。

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