あさくさ交遊録<第2回>稲川實|月刊浅草ウェブ

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吉村平吉先生は、大正9年(1920年)8月3日、赤坂区一ツ木町66番地(現・赤坂四4丁目)で、父吉村末吉、母タキの長男として生まれた。まさに、いいところのお坊っちゃんである。
吉村先生の生い立ちについては、改まって質問したり、話題にしたりしたことはなかったが、私の商売上の取り引き先であった銀座ヨシノヤさんの矢代裕三会長が、まことに偶然、吉村先生とは赤坂小学校、旧制芝中学で一緒の同級生、幼馴染みであったから、どちらかが「会いたいね、飲みたいね」となると、私はお二人の連絡係になるわけで、吉村先生とも、以後急速に親しくなっていった。
先生の2冊目の本『吉原酔狂ぐらし』(三一書房・1990年)によると、「父は殿様商法の書画骨董商だったのだが、丸ビルの美術倶楽部に多額の投資をしていたらしく、共同経営者みたいに振舞っていた。それもうまく乗せられたわけで、何回も不渡り手形をつかまされ、さらに美術倶楽部そのものが、破産状態に陥ってしまったようだ。……わたしが旧制中学の三年生になったばかりの春、父親の放蕩に泣かされていた母親が、脳出血で亡くなり、以後の父は、家を雇いの婆ァやさんにまかせっきりにして、いよいよ羽根を伸ばし、遊びまわるようになった。」という。

「父の花柳界のホームグランドは神楽坂だったが、そこのお茶屋だけでなく、馴染みの芸者のいる置き屋にまで、よくわたしを連れていった。子連れの客というのは人気があり、もてるらしかった。中学生のわたしとしても、美妓に挟まれて両方から酌をされたりすると、ついつい酒盃が重なった。『アラ、おとうさまよりお強いみたい』などといわれて、満更でもなかったのだ。……そんなふうに遊蕩の味を覚えてゆくのと同時に、わたしは浅草六区興行街周辺の盛り場の味を覚え、その世界にものめり込んでゆくようになった。……母が亡くなって間もなくだったか、ウチの家作に住んでいた職人さんの息子の、わたしより一つ歳上の遊び友達に連れられて、浅草六区の興行街にゆき、エノケン一座(当時の正式の劇団名は〝ピエル・ブリアント〞)のレビューを観たのが、そもそものきっかけだっ
た。」と往時を回顧している。
吉村先生ファンの間で、一番人気のある写真が、今回掲載の写真である。昭和四十年代に撮られたものと思われるが、残念なことに撮影者不詳である。連載にあわせ、順次吉村先生の旧蔵写真や資料をご招介してゆきたいと思っているが、もし、お気付きの情報がありましたら、ぜひご一報いただければありがたい。

(稲川實, 2016年)

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