東洋興業会長(浅草フランス座演芸場東洋館) 松倉久幸さんの浅草六区芸能伝<第7回>「萩本欽一(はぎもときんいち)」
前号では、昭和34年に浅草フランス座が大改装を行い、新たに「東洋劇場」を増設したこと、そこへ配属された東八郎と、研究生として入ってきた少年との運命的な出逢いの場面までをお話しましたね。
東をはじめとする諸先輩たちから“欽坊”と呼ばれて可愛がられ、七転び八起きしながらも、徐々にその秘められた才能を開花させていったこの少年…彼こそ、押しも押されぬ大スターとなった欽ちゃんこと、萩本欽一(はぎもときんいち)です。約半世紀(!)の長きにわたり、大人から子供まで誰からも愛され続ける、稀有なキャラクター。いくつになってもチャレンジ精神と努力の姿勢を忘れず、今もなお私たちに沢山の元気や勇気を届けてくれる国民的コメディアン、欽ちゃん。その人間力を培った浅草での青春時代の物語を、お届けしたいと思います。
萩本欽一(本名:同)は昭和16年、東京都台東区生まれ。実家はカメラ店を営んでおり、比較的裕福な子供時代を過ごしましたが、社会情勢の変化とともに次第に経営が傾き、わが社が経営していたアパートに一家で転居して来たことが、そもそもの縁でした。幼い頃から大好きだった喜劇の世界に憧れ、高校在学中に当時浅草で絶大な人気を博していた大宮デン助劇団の門を叩くも、「せめて学校を卒業してからおいで」と断られ、いざ卒業してから再訪すると、今度は定員いっぱいだからと、また断られてしまった(笑)。その頃、ちょうど旗揚げしたばかりだった東洋劇場で研究生を募集しており、タイミングよく採用となったわけです。
前回も少し触れましたが、ここで東洋劇場誕生のいきさつと、当時のわれわれを取りまく状況について、お話しておきましょう。
昭和33年、売春防止法の施行とともに吉原の灯が消えましたが、このダメージは浅草六区興行街にとって、非常に大きなものとなりました。これまで、六区でストリップや映画を楽しんだ後、一杯ひっかけてから吉原へ繰り出していた男た
ちが、一斉に姿を消してしまったのですから。
もう一つ深刻な問題となったのは、純粋な娯楽としてのストリップの本質を揺るがしかねない、きわどい関西系ストリップの台頭です。
日々懸命に精進し、素晴らしい舞台を展開してくれていた踊り子たちの名誉のためにも、ここは声を大にして言っておきたいのですが、フランス座のショーは、あくまでも舞踊中心、チラリズムで魅せるいわば正統派のストリップ。踊りなどそっちのけであさましいばかりの卑猥な見せ物と化した関西系ストリップとは、全くの別物です。
そういう良さを解って通い続けて下さるお客さんに支えられていたフランス座ではありましたが、やはり人の心とは、目新しいほう、刺激的な方へと流れ易いもの。このまま何の対策もとらなければ、客足の流出を避けられないのは目に見えていました。
そこで父・宇七は、考えたのです。評価の高まりつつあった軽劇のほうにも更に力を入れ、ストリップに頼らずとも芝居の面白さだけで人を呼べるような、本格的な劇団を立ち上げよう。そのためには、専用の劇場が不可欠だ、と。こうして増築した建物の4・5階にフランス座を移し、1~3階をリニューアルして東洋劇場を創ったのです。
社運を預けた、大きな賭けでした。
東洋劇場の誕生と同時に入ってきた萩本少年は、正直なところ、才気溢れるというタイプではありませんでした(笑)。まだあどけない坊やといった風情でね、本当にこの子は、厳しい世界でやっていけるのだろうかと思ったくらいです。実際、当初は何をやっても失敗ばかり、芸の上達はいまひとつだったけれど、でも、不思議と人を惹きつけ、誰からも好かれるところがありました。これは、天性のものでしょうね。芸人を志すものにとっては、大変な強みです。先輩芸人たちからもずいぶん可愛がられ…といっても、最初は使いっ走りばかり、相当こきつかわれたとは思いますが(笑)、そうして何を頼まれても嫌な顔ひとつせずに頑張っているうちに、こいつはなかなか根性があるぞと認めてもらえるようになったのです。