「古川ロッパ」エノケンと一時代を築いた風変わりなインテリ男!<第27回>浅草六区芸能伝|月刊浅草ウェブ

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古川ロッパ、本名・古川郁郎は明治36年、東京は麹町の生まれ。男爵家の六男ですが、名家ゆえ嫡男以外は養子に出すという家訓に沿い、親戚筋に当たる義父の下で育ちました。とはいえ、何不自由ない、実に裕福な暮らしぶりです。

幼い時分より文章力に長け、ほんの10歳にも満たない頃から何かしら書いていたといいます。
恵まれた境遇のおかげで多くの文化・娯楽に触れながら育った彼は、殊に映画を好むようになり、その文才を評論文という形で開花させます。中学2年で映画同人誌を発行し、“古川緑波”のペンネームで「キネマ旬報」の記者として原稿料も貰っていたというのですから、その早熟ぶり、恐るべし!

早稲田大学1年の時には作家・菊池寛の文芸春秋社から声が掛かり、雑誌「映画時代」の起ち上げに参加しますが、そちらの方にのめり込むあまり大学はおろそかになり、2年で中退。その後は編集者の道を邁進し、「映画時代」を譲り受けるまでとなりましたが、独立経営に失敗、父からの多額の出資も、全て泡と消えてしまいました。

しかし、人生何が起こるかわかりません。皮肉にもこの大失敗が、喜劇役者・古川ロッパ誕生のきっかけとなったのですから。
気づけば郁郎青年は、すでに三十路に手の届く年齢となっていました。学歴も捨て、雑誌もポシャり、さてこれからどうすればよいのだろう…。
師と仰ぐ菊池寛に今後の身の振り方について相談を持ち掛けたところ、返ってきた答えは、あまりにも意外なものだったのです。
「君、役者になってはどうだい?」
「は?」
菊池とて、何の脈絡もなく突拍子もない提案をした訳ではありません。郁郎青年は、宴会での余興が抜群に上手く、趣味の延長上ではあるものの「ナヤマシ会」というアマチュア演芸グループを作って活動していたのです。
粗削りながら、その芸にはきらりと光る独自のセンスが感じられました。ブルジョワ家庭出身ゆえの豊かな教養や知識に加え、生来の頭の良さ、感性…様々な資質に恵まれた彼の中に菊池は、役者としての可能性を見出したのでしょう。それにしても、ものすごい眼力ではあります。

菊池と縁のあった小林一三(宝塚歌劇団・東宝の創業者)の世話で話はとんとん拍子に進み、昭和7年、宝塚中劇場の正月公演において歌や声帯模写芸で初舞台を踏みました。(余談ですが”声帯模写”という言葉は、ロッパの生んだ造語だそうです。)
この時ロッパ、31歳。だいぶ遅い役者人生のスタートでしたが、その後の快進撃は、まさに飛ぶ鳥も落とす勢い!一足先にスター街道を走っていたエノケンの対抗馬という図式も相まって、瞬く間に売れっ子コメディアンへと成長してゆきました。
身軽な体で舞台狭しと飛び回り、味のあるダミ声で歌う庶民的なエノケンと、でっぷり体形(笑)にして貴族風情、知的なユーモアと美声が持ち味のロッパ。芸風も支持層も、ものの見事に好対照をなす二人は互いに競い合うが如く、浅草軽演劇の黄金時代を築くこととなったのです。

ところで、ロッパ躍進の背景には、浅草大衆芸能の浮き沈みが少なからず絡んでいます。
ロッパが素人時代に結成していた「ナヤマシ会」、その流れを汲んでデビュー後に立ち上げた劇団「笑いの王国」のメンバーには、徳川夢声大辻司郎山野一郎ら、活動弁士(無声映画の台詞付け、解説等をする芸人)からの転身組が名を連ねていました。大正時代に活躍した弁士たちが、トーキー映画の台頭とともに職を失い、新たな活路を求めて軽劇界へ進出したというわけです。
弁士のみならず、往年の浅草オペラの歌手など、時代から取り残されてしまった実力者たちが異分野へ散った結果、それぞれが行く先で新しい風を吹き込み、浅草大衆芸能全体のレベルアップ、活性化へと繋がっていったのです。
この辺りの事情については、なかなか興味深いものがありますので、また別の機会に詳しくお話いたしましょう。

さて、舞台に映画に歌にと、大活躍したロッパの輝かしいキャリアは昭和10年代前半に絶頂期を迎えますが、無情にも第二次世界大戦を境に、潮目は一変してしまいました。
戦後は往年のライバル・エノケンとの舞台共演を実現させたり、創成期のテレビ界にも貢献したものの、残念ながらその後は徐々に先細りとなり、昭和35年、舞台出演中に体調を崩し、翌年帰らぬ人となりました。

享年57歳、。活動期間は短かったものの、卓抜のセンスで日本の喜劇史に異色の足跡を残した古川ロッパ。
唯一無二の存在感で、エノケンとともに一時代を築いたその業績は、やはり後世に伝え残してゆくに値するものだと思うのです。

私の父・松倉宇七は、芝居好きが高じて上京し興行の世界へ飛び込んだ、かつての演劇青年でした。冒頭でも触れましたが、現在の東洋館の前身・東洋劇場を新設すると決めたのは、ロッパの「笑いの王国」のような劇団を、もう一度浅草に復活させたい、との思いからだったようです。
そんな風に先人の偉業に憧れ、思いを馳せ、後進たちは次の時代を創ってゆくものなのですね。
いつの日かまた、エノケン・ロッパのような、日本中に旋風を巻き起こすほどのとんでもない大物が、この浅草から現れるでしょうか…楽しみでなりません!

(口述筆記:高橋まい子)

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