フランス座を語る上で、その前身ともいえるロック座は欠くことのできない存在ですので、いましばらくロック座のことをお話させてくださいね。
草野さんはロック座開場の約1年後に退陣し、父が2代目社長に就任しました。ストリップの成功は喜ばしいことではありましたが、もともと演劇が好きでこの世界に入った父ですから、頭の中には、いつか芝居を観せたいとの思いがあったのでしょう。当初はストリップのみたっだショーをストリップ1時間半、芝居1時間の2本立てに変更したのです。この構成はフランス座にも引き継がれ、後に浅草から多くのコメディアンが誕生する礎となりました。
芝居をするためには当然役者が必要ということで、コメディアンを募集しました。そこに応募してきたのが、当時まだ無名だった山形県出身の役者、伴淳三郎です。後に伴淳(バンジュン)の愛称で大スターとなった彼が、ロック座の初代座長でした。戦争という時代に翻弄されたこともあり下積み時代が長かっただけあって、熟練の芸は、本当に面白かった。東北訛りの独特な語り口も、お客さんに大好評でした。ロック座に在籍していたのは3年程で、映画界に移ってからの活躍ぶりは言わずと知れたところですが、浅草の発展に功績を残してくれた人でもあります。浅草サンバカーニバルの発案者は、実は彼なんですよ。
役者の花形が伴淳なら、お客様の花形は、やはりこの方でしょう。
ある日フラっと現れて、それから度々訪れるようになった年配のお客様がいました。このお爺さん、ショーが終わると進駐軍流れのチョコレートやなんかを差し入れてくれるものだから、踊り子たちが喜んでね。でも、誰の知り合いでもないんですよ。裏方たちも、“あの小汚いジィさん、一体何者だ?”なんて(笑)。ところがある時、たまたま楽屋に顔を出した父が、お爺さんの顔を見るなり、「もしやあなたは、永井荷風先生ではありませんか⁉」と。芝居好きの父は、戦前六区のオペラ館で上演された永井作品を観たことがあり、それで知っていたのです。
この時以降、荷風先生は木戸銭御免。毎日出入りするようになり、ロック座のために芝居を書きおろしてくれたり、舞台がハネると踊り子たちに御馳走を振舞ってくれたりと、ずいぶんお世話になったものです。もっとも荷風先生にしても、終始楽屋に入り浸っては寛ぎ、”ワタシは人畜無害だから”なんて踊り子たちと一緒にお風呂にまで入ったりと好き放題(笑)、いつしか家族的な情すら芽生えていたように思います。
ロック座盛況につき2軒目の劇場を建てることが決まった時、父は座名をどうしようかと荷風先生に相談しました。そう、フランス座の名付け親は、何をかくそう文豪・永井荷風なのです。代表作「ふらんす物語」にある通り、若き日にフランス暮らしを経験した荷風先生は、芸術的なストリップショーの本場にちなみ、この名前を付けてくれたのでした。東洋館の正式名称が今現在も「浅草フランス座演芸場東洋館」なのは、荷風先生からいただいた大切な座名を、後世まで残したいとの思いからなのです。
大まかではありますが、ここまでが、浅草フランス座誕生までの流れ。戦後の混沌の中、沢山の人の熱い想いを乗せての船出でした。
次回からは私自身の半生と浅草六区興行街の栄枯盛衰、そしてフランス座で活躍した才気あふれるのコメディアンたちのことを、少しずつお話させていただきましょう。さてさて、誰からまいりましょうか…そう、やはりトップバッターとしては、この人が適任でしょうね。
次回では、浅草から飛び立ち、押しも押されぬ国民的大スターとなった“寅さん”、渥美清の物語をご紹介したいと思います。どうぞお楽しみに…!
(口述筆記:高橋 まい子)
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