「松倉宇七氏」の上京で始まる!焼け跡からの芸能伝<第1回>浅草六区芸能伝

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浅草演芸ホール, 松倉

東洋興業会長(浅草フランス座演芸場東洋館・浅草演芸ホール) 松倉久幸さんの浅草六区芸能伝<第1回>「プロローグ」月刊浅草ウェブ

“笑う門には、福来る”の言葉どおり、水や空気と同じくらい、日々の生活の中に笑いは必要不可欠です。どんな時代にも、誰にとっても。
新たな年の幕開けにふさわしい新連載は、70年の歴史を誇る老舗劇場『浅草フランス座演芸場東洋館』の経営母体、東洋興業株式会社会の会長である松倉久幸氏の物語です。高校在学中から劇場の仕事を手伝い、大衆芸能のメッカ・浅草六区の栄枯盛衰を半生記以上にわたり見つめ続けてきた松倉さんは、まさに浅草芸能史の生き証人。その魅力あふれる人生を、フランス座出身の浅草芸人たちの興味深いエピソードと併せて紹介してゆきたいと思います。
渥美清由利徹三波伸介伊東四朗東八郎萩本欽一ビートたけし…国民的スターへの階段を駆け上がっていった錚々たるコメディアンたちは、永遠の劇場少年・松倉さんの目に、どんな風に映っていたのでしょう?わくわくするようなお話が、わんさか飛び出してきそうですね!
 
さぁ、これからじっくりと語っていただきましょう。松倉さんの人生の物語は、丸ごと戦後大衆芸能の貴重な記録でもあります。ご自身にとってはもちろんのこと、若き芸人たちの青春の舞台ともなった浅草フランス座の歴史とともに、古き良き昭和の空気感や人情味にも思いを馳せて頂けたなら、幸いです。

◆父・松倉宇七と浅草六区、廃墟からの船出

さて、どこからお話しましょうか。そうそう、まずは私の父のことを少し、話しておかねばなりません。演劇好きな田舎の青年が興行の世界に憧れて上京し、浅草の地を踏んだ…全ては、そこから始まったのですから。
 
父・松倉宇七は明治38年、長野県上田市に生まれました。
生家は代々続くランプ店だったのですが、明治に入り電気が普及してゆく中商売は先細りとなり、ついには廃業。それを機に、小さなころから大好きだった芝居に関わる仕事がしたいと、思い切って東京へ出たのです。関東大震災の少し前のことでした。浅草六区で映画館の運営会社に就職し、事務員からコツコツと努力を重ねて三友館という大きな館の支配人にまで上り詰めたのですが、昭和20年、空襲により浅草は壊滅的な被害を受け、六区も焼け野原となってしまいました。
戦後、疎開先で知り合った草野稲穂さんという実業家と再び上京した父は、廃墟と化した浅草六区にもう一度希望の光を取り戻そうと焼失した万世座という劇場の再建を目指し東奔西走したのですが、その過程でさまざまな出逢いがあり、事態は思わぬ方向へと転換します。こうして誕生したのが、日本初のストリップ専門劇場『ロック座』でした。草野さんが社長、父が専務に就任し、昭和22年にスタート。戦後の暗い時代において、人々は何とか元気を絞り出すための娯楽を求めていたのでしょう。オープンするやいなやロック座は連日満員の大盛況となり、この成功を受けて昭和26年に誕生したのが、フランス座です。

東洋館〜浅草フランス座劇場〜

歴史あるフランス座(ふらんすざ)の名前でも有名な東洋館。正式名称は「浅草フランス座演芸場東洋館」です。
現在はいろもの(漫才、漫談など)を中心とした演芸場。建物を同じくする姉妹館・浅草演芸ホール(落語中心の寄席)とともに、歴史ある浅草お笑い文化の一角を担う存在と自負しています。「浅草フランス座」以来の伝統を受け継ぎつつ、新しい「お笑いの発信基地」でもある当劇場へのご来場を心よりお待ち申し上げております。
浅草観光の際には是非ご利用ください。


東洋館〜浅草フランス座劇場〜公式ページ