【川端康成「浅草紅団」完結】北條誠(作家)|月刊浅草ウェブ

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川端康成先生の「浅草紅団」の転載が、ついに終った。
昭和47年6月号、通巻等18号から昭和50年12月号、通巻等60号まで。43回の連載である。よくぞ続いたものと、ふりかえって感慨が深い。

「浅草紅団」は、昭和4年(1929)、から翌5年2月まで、東京朝日新聞に連載された。先生、30歳の作品である。
大正6年(1917)、17歳の3月、茨木中学を卒業したあと、先生は上京して浅草蔵前の田中岩太郎家に身をよせ、第一高等学校入学の準備のため、予備校に通った。「よく浅草公園にゆく」と、年譜にあるが、この時からはじまった先生と浅草との結びつきである。先生の作品は年代順に考えると「初期の作品群」、「伊豆もの」、「浅草もの」と続く。しかし、伊豆との出逢いは、浅草との結びつきより遅いわけだ。「浅草紅団」の新聞連載のあと、翌年「改造」に「浅草紅団」のつづきを書き、「新汐」に「浅草黒帯会」が発表された。これも「紅団」のつづきである。
そして、昭和6年には「浅草日記」(週刊朝日)「浅草の女」(新汐)、7年には「浅草の九官鳥」(モダン日本・連載)、昭和8年、「寝顔」(文芸春秋)、9年「虹」(中央公論)、「浅草祭」(文芸・連載) と、浅草ものが続く。「雪国」の連載のはじまったのが、昭和10年1月からだから、「伊豆」「浅草」「雪国」は1つの「流れ」として、先生の心の中に音たてたようだ。「伊豆」の「踊子」は「浅草」の「レビューガール」になり、「雪国」の「駒子」に流れてゆく。育ってゆく。「浅草紅団」は、その意味で、先生の作品の流れの中で、大切な1つの頂点でもあろうか。18歳の日からはじまった、浅草との愛着が、13年目に花開いたとも言えるだろう。

雑誌「浅草」の織田邦夫さん、「雷おこし」の、正木健吉さんから「紅団」の転載の御申出があった時、はじめ私はためらった。何せかなり長い作品である。この小冊子への転載連続は無理であり、不可能だと思ったからだ。途中で中止になったり、あるいはこの小冊子が廃刊になりでもしたら……と思ったのだ。
43回の連載が無事終って、私は己の不明を恥じ、浅草の方々の、先生によせる「愛」の深さを改めて骨に刻んだ。
先生も、亡くなるまで、「浅草」を愛された。こうした「愛」の流れあいは、いまの日本では誠にありがたく、不思議にさえ思われる。
「紅団」は終った、しかし、先生と浅草の結びつきは、終わらない。
関係者の方々の御努力に、頭を垂れる。

(作家・北條誠)

~月刊浅草500号記念によせて(平成24年・8月号)~

※記事の無断使用を固く禁じます。



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