浅草紙ここにありき<第11回>懐かしの浅草芸能歩き|月刊浅草ウェブ

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る

「昔、吉原のそばに紙漉(す)き場があって、紙屋の職人が紙を水に浸して、待っているのが退屈だから紙の冷やける間、ひと回りまわろうってんで゛冷やかし〟という名前がついたんですな」

古今亭志ん生師匠の『二階ぞめき』では゛冷やかし〟の語源が語られている。「ぞめき」とは浮かれ騒ぐこと、「ひやかし」はこの場合、登楼せずにただ廓内を巡り歩くことをいう。

噺の方は「一晩に一回、吉原へ行かないと寝つきが悪い。冷やかさないと気分が悪い」という若旦那が父親の大旦那からにらまれ、番頭の提案で自宅の二階に張り見世(遊女が並んで客の見立てに応じる)をこしらえてしまう。

すっかり気に入った若旦那は頬かむりをして、一人きりで二階へ上がる。そのうち妄想の世界へ入り込み、ほかの冷やかし客と大喧嘩が始まった。

「大声を出すなと言ってきなさい」と大旦那に言われ、上がってきた丁稚(でっち)の定吉に声をかけられた若旦那が「定吉か。悪い所で会ったなあ。お前、家に帰ってもここで会ったことを親父に黙っていてくんねえ。」

語りの面白さは説明無用。「惚れて通えば千里も一里、長い田圃もひと跨(また)ぎなんて、学校じゃあんまり教えない」と、身を挺して(?)練り上げた高座の魅力が尽きない。「長い田圃」は浅草寺と遊郭の間に広がっていた通称・吉原田圃だが、紙漉き場は大門の近くを流れ、隅田川と吉原を結ぶ山谷堀周辺にあった。

現在は埋め立てられ、約700メートルの遊歩道を備えた台東区立山谷堀公園には、かつて架けられていた九つの橋の親柱が設置されている。その隅田川から数えて6つ目にあるのが、「紙洗橋(かみあらいばし)」だ。ここで製造されたのは「浅草紙」と呼ばれ、古紙や紙くずを原料とする再生紙だった。粉砕した原料を水にさらし、煮て溶かし、冷やかして叩いたあとは後に漉き返すのだが、現在のようにインク(当時は墨)を除去する技術が発達していなかったため仕上がりが黒っぽく、文字の一部が残ることもあったという。だが低価格のため鼻紙、落とし紙(トイレ用)や文字を書くほか生活全般に使われた。おそらく、吉原での需要も高かったことだろう。

漉き返しの工程で水にさらすのは、熱を冷ますほか原材料を柔らかくし、不純物を取り除く目的もあった。そこに紙職人が゛廓をひやかす〟時間ができた。実際に山谷堀公園を歩くと思いのほか幅がせまく、紙洗橋の小さなものだったようで、最も隅田川に近い今戸橋を詠んだ「今戸橋上より下を人通る」という古川柳がある。それほど吉原通いの船で賑わったので、職人さんたちも自然と同じ方向へ歩いたのかもしれない。紙洗橋から大門までは、目と鼻の先だ。

かつては九つの橋が架けられていた山谷堀公園。

「ひやかし千人、客百人、間夫は十人、色一人」(「恋一人」も聴いたことがある)という言葉があり、どこか切なさが漂う。『二階ぞめき』の冒頭で「吉原というものが明治、大正の頃はまだ昔の風が吹いていまして・・・」という志ん生師匠にも、何か特別な思いがあったのかもしれない。

(写真/文:袴田京二)

※掲載写真の無断使用を固く禁じます。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る

公式月刊浅草ウェブ|メールマガジン登録

【登録時間わずか1分】

公式月刊浅草ウェブでは、浅草の文化芸能を知りたい方へ毎月1回メールマガジンを配信させて頂きます。

ご興味ある方はぜひご登録よろしくお願いします!

※記入項目は3項目(メールアドレス・お住まい・ご興味持った理由)

※クリックしますとGoogle Formへジャンプします。

個人情報の取り扱い・プライバシーポリシーをご確認下さい。


メールマガジンご登録はこちらです