「浅草はなぜ日本一の繁華街なのか」を読んだ。著者は、すき焼き「ちんや」6代目の住吉史彦氏。
浅草生まれ浅草育ちの9人の方との対談集(晶文社、1,600円+税)で、住吉さんは聞き手である。
近世をふり返って浅草は、大正12年の関東大震災、昭和20年の東京大空襲と2度焼け野原になっている。山の手線の乗り入れ拒否、テレビの普及で興行街が打ちひしがれるほど浮き沈みの激しい時代であった。それでも浅草にこだわ
り、浅草に居続けた老舗の意志と意地と粋。継承されてきた暖簾について従横に語られている。珠玉のような言葉が随所に出てくるが、住吉さんが「老舗の流儀」としてまとめてくれているので、それを紹介しておこう。
江戸趣味小玩具「助六」5代目・木村吉隆さん(1937年生まれ)。
一番大事なのは、自分の商売が好きであること。それに尽きますね。一生懸命!真っ直ぐ!真面目に!商いの基軸においては不器用に、商いの仕方については時代を見据えて器用に。
「弁天山美家古寿司」5代目・内田正さん(1943年生まれ)。
江戸前鮨に徹した仕事。最大の危機は生鮨が主流となった頃でした。仕事というのは、伝染うつるものである。親方の仕事が伝染ったら、それを継承して日々励むのみ。職人の仕事とは、親方のいる高みと自分のあいだを、日々埋めようとし続けることである。
「宮本卯之助商店」7代目・宮本卯之助さん(1941年生まれ)。神さまの御霊を載せて町を守る神輿を作る。ものごとには、25年周期で変化があるような気がします。「義を重んずる」姿勢。神輿を作るときは、身も心も清めて仕事に臨む。目の前の困難に対処するには、潮の流れを読み、周期の感覚をもって判断することが大切である。
「駒形どぜう」6代目・渡辺孝之さん(1939年生まれ)。
江戸の食文化として「どぜう鍋」を守る。美味しく、お値打ち、そして気持よく。とにかく、誰よりも早く起きて、誰よりも遅くまで働く。どぜう料理を、江戸の風情とともに味わっていただくための店づくり。
割烹家「一直」6代目・江原仁さん(1934年生まれ)。
芸どころ浅草の花柳界を支える。すべてのお客さまに主人の目の届く範囲で仕事をする。日本料理とは、お客さまの五感を満足させる総合的なおもてなしの文化である。
浅草おでん「大多福」4代目・船大工安行さん(1941年生まれ)。
後を継ぐ息子たちには、ただ背中を見せてきただけです。ささいなことに慌てずに、真面目にこつこつ日々の仕事に精進すればなんとかなる。主の務めとして、自分の味覚は常に一定であるという信念をもって1日1回の味見に臨む。
「浅草演芸ホール」会長・松倉久幸さん(1935年生まれ)。
浅草六区には夢がある。「笑いはなんたって一番」を信条に。浅草の町には、どん底にいる人間を立ち上がらせる生命力がある。それを信じて、決して諦めずに生きていれば、またいい日がやってくる。
「ヨシカミ」2代目・熊澤永行さん(1938年生まれ)。
昔の華やかな浅草を知っているぶん、浅草をなんとかしなければとの思いがある。ほかの店と同じことをやるのではなく、平行線で頑張って「独自の売り」をつくる。お客さまに通っていただける店にするには自分の親戚や近所のひ
とに対するような失礼のない接客をすることが一番。
「辻屋本店」2代目・富田里枝さん(1965年生まれ)。
鼻緒は、お客さまの足に合わせて専門の職人がすげる。履物専門店として、浅草らしい和装文化を発信し続ける。
4月の木馬亭では「口腔衛生」について話した。歯を磨くだけではなく、口腔内を清潔に保つことが肝要であるということである。とくに誤嚥性肺炎を起さないよう、十分に注意する必要がある。