今はむかし竹屋の渡し<第4回>懐かしの浅草芸能歩き|月刊浅草ウェブ

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「銀杏がえしに黒襦子かけて泣いて別れたすみだ川…」

昭和12年、東海林太郎が発表した「すみだ川」の歌い出し。佐藤惣之助作詞、山田栄一作曲「あゝそうだったわねえ……」と入るせりふは田中絹代で、のちに美空ひばり島倉千代子もレパートリーとした。この歌は永井荷風の同名小説をもとにしているという。歌詞に男女の名は出てこないが、小説では長吉とお糸。今戸暮らしで幼馴染みの二人はたがいに思いを寄せながらも、本来芝居や芸ごとが好きな長吉は母親の強い希望で大学を目指し、お糸は日本橋葭町(芳町)の芸者となってそれぞれの道を進んでいく。恋愛と将来について苦悩する長吉を軸に展開するストーリーだが、歌の方は芸者に出た女性の胸の内を述べる、アンサーソングの印象がある。「あなたが二十歳、私が十七の時よ。いつも清元のお稽古から帰って来ると、あなたは竹谷の渡し場で待っていてくれたわねぇ」も有名なせりふだが、小説の長吉は18歳、お糸は2つ年下で常磐津や長唄を稽古している(長吉の母・お豊は常磐津の師匠)。

小説、歌謡曲とも浅草界隈の情景が味わい深く描かれる。ただ明治42(1909)年、海外から帰国して間もない荷風が書き下ろした「すみだ川」では大学を出て〝月給取り〟へという進路、工場が建ち並ぶ風景など近代化する東京の姿も描かれる。そこには荷風が好む〝追憶〟の世界との対比が感じられ、例えば「河の中ほどへ来た頃から舟のゆれるにつれて冷酒がおいおいきいて来る。葉桜の上に輝きそめた夕月の光がいかにも涼しい「(すみだ川・新橋夜話」岩波文庫)と、長吉の伯父で俳諧師の松風庵蘿月(らげつ)が向島の小梅瓦町の家を出て、竹屋の渡し(歌詞では竹谷)から今戸へ向かう描写など、読者として魅かれるものがある。

渡し船は山谷堀口から対岸へ、向島三囲神社堤下の大鳥居を目指した


竹屋の渡しは現在、暗渠となった山谷堀口の広場に記念碑が立つのみ。向島の三囲(みめぐり)神社あたりと船が往復し、乗客があると船宿「竹屋」の女将が対岸に向かい「たけやー」と呼ぶ声が評判で、春には多くの花見客を運んだ。昭和3年、下流に言問橋が完成するまでは隅田川両岸を結ぶ貴重な交通手段、今は歩行者専用の桜橋でも渡ることができる。

そういえば落語『船徳』の主人公、若旦那の徳さんも前出の蘿月と同様、放蕩の末に勘当。柳橋の船宿に居候し、ある日船頭になると決めてしまう。サゲの「船頭を1人、雇ってください」まで大騒動だが、その途中「竹屋のおじさーん、お客さん乗せて大桟橋まで行きますよ!」「徳さん、1人でかぁーい。大丈夫かぁーい?」とやりとりする場面がある。大桟橋は、おそらく吾妻橋のたもと。おじさんが竹屋にいたのなら目的地を通り過ぎたか、でも徳さんに今戸まで漕ぐ体力はなさそうなので、土手に姿を見つけたのだろう。
小説「すみだ川」は晩夏から翌年初夏までの物語。「船徳」は盛夏、浅草寺四万六千日ゆかりの噺。涼しげな渡し船は、どちらにも独特の情趣を添えている。

(写真/文:袴田京二)

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