猿若三座〈第1回〉絹川正巳|月刊浅草ウェブ

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主な配役は、小松内府重盛・僧都俊寛(九世團十郎)、平相国清盛(三世仲蔵)、小松中将惟盛(片岡我重)、藤原師光入道西光(二世時蔵のちの三世歌六) など。

鹿ケ谷(ししがたに)山荘の陰謀から露顕、加担者の詮議と断罪、重盛の諫言、鬼界ヶ島の俊寛と「平家物語」の本文により活歴式に~盛衰記図会模(せいすいきのえぐみをうつして)~とあるように脚色したもの。

團十郎のこの「重盛諌言」は、活歴中の絶品という。父の平清盛を諫める長ぜりふ。

ー忠義の道を説き、直衣(なおし)の袖も涙にぬれ命に替て諌める孝(こう)ー

「平家物語」のそれを、ほとんどそのままにとったもの、謳いぜりふでない長ぜりふが、活け殺しの妙味で、まったく重盛その人の肺腑から出るように聞えたのだという。

とにかく團十郎の創造した重盛は、歴史書以上の小松内府らしい典雅荘重なものであった。

続々歌舞伎年代記に「・・・この諌言場は平家物語にならい、河竹が筆をとり、況(いわ)んや、就中(なかんずく)などと、雅俗混交のセリフを用い、見物を煙にまきたるものなり・・・」とある。

しかし、重盛も好評であったがそれ以上に鬼界ケ島の俊寛も評判がよかったという。

この「重盛諌言」は、重盛即團十郎といわれる当り役で、新歌舞伎十八番のひとつに選定されている。

そのあと、この場は五世中村歌右衛門により復演されたが、團十郎の至芸によって生かされた役なので劇的なもりあがりに欠けるものがあったといわれる。

そして明治10年4月、前年の大火で類焼後やっと落成した新富座の再開場の菊五郎と左團次に黙阿弥は「富士額男女繁山(ふじびたいつくばのしげやま)」、通称「女書生繁」4幕を書いた。

熊合宿で男装の女が露顕、警察に引かれたと「仮名読新聞」に掲載された記事を種に、新風俗をとり入れ現代劇・社会劇として描かれた作品で、男装の女のエロティシズムが巧妙に仕組まれていたところが評判となった。

主な配役は、書生繁実はおしげ(五世菊五郎)、人力車夫御家直(初世左團次)、神保正直(中村宗十郎)、妻木右膳(三世仲蔵)、仮小屋ながら初開場、然も花の4月、狂言も良く役々も好評だったが、西郷隆盛らの叛乱・西南の役が持ち上がり、全国的に動揺したので観客の足はにぶかったそうだ。

しかし菊五郎の繁は、ざんぎり頭にて一見書生の形だが何処やらに女らしい優しい情があり、旅の宿屋で、左團次の車夫に無理クドキに口説かれ、止むを得ず身を任す場面で達磨合羽の赤い裏を見せる思いつきなど、さすがに女の色気を失なはない心くばりなど、他の役者のとても考え及ばぬところと老劇通は等しく賞賛している。

新富座の次興行は6月11日初日、1番目は芝翫の「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」で菊五郎は敦盛と弥陀六、中幕は宗十郎お得意の「敵討襤褸錦(かたきうちつづれのにしき)」、そして2番目の新作は「勧善懲悪孝子誉(かんぜんちょうあくこうしのほまれ)」、通称「孝子善吉」、これは黙阿弥が横浜に行った時、海岸通りの道普請に大勢の懲役人たちが働かされていたところに7歳位の少女が駆けて来て、人相の悪い男にすがりつき、「お父さん、早く帰って」と泣き出した。するとその男は邪険にも振り払った、という光景を目撃し立案されたのがこの5幕12場の世話場で主人公の善吉に扮した菊五郎は、<明治の小團次>といわれもっとも好評を博した作品である。