浅草誌半世紀・名随筆の足跡<第1回・村上元三「気にしない気にしない」>|月刊浅草ウェブ

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いつぞや取材にきた新聞記者に話したことだが、わたしのように時代小説ばかり書いていると、ふっとニの足を踏むときがある。たとえば、江戸のころの市井の言葉づかい、あるいは名称を使っても、若い読者にわからないのではないか、と考えると迷ってしまう。腰高(こしだか)障子や油(あぶら)障子などと書いても、いま都会では見ようと思っても難しい。三尺帯を締めて、と説明しても、知っている人は少いだろう。

芝居のことや吉原を書くとき、よほどていねいにルビを入れないと、編集者がとんでもない振仮名をつける場合がある。吉原の大門も、(おおもん)とルビをつけないと、(だいもん)にされるおそれが多い。芝居の座頭(ざがしら)と振仮名をつけておいたのに、活字になったのを見たら、(ざとう)になっていた。座頭市が有名になっているせいだろう。
いつぞやテレビドラマで、猿若町を(さるわかちょう)と台辞で言っていた。演出者も役者も(さるわかまち)という読み方を知らないからだ、とあきらめてしまうより仕方がないが、ちょっと調べればわかるのに、あまりうるさく言うと、煙たがられる。テレビの脚本を書く人も、時代考証など勉強していないのではないか、と言ったら失礼かも知れないが、わたしたちから見ると、はっきりそれがわかる。

テレビドラマやテレビ映画で、ちゃんと時代考証した作品にお目にかかることは少い。近頃は、むしろ時代考証を無視した作品のほうが、新しい行き方だとされる傾向が強い。しかし、脚本家はもちろん演出者も俳優も、一応は時代考証を勉強した上で、嘘を承知で新しい映像を作りあげる、というのならいいが、なにも下地がなしに嘘をでっち上げるのだから、突っ込んで訊かれたら、返辞も出来ないだろう。
これはテレビばかりではなく、このごろの映画の時代劇のほうにも言える。床山(とこやま)はもちろん、衣裳、小道具などに、いちいちダメを出せる演出者や俳優が少くなって行く現在、十年も経ったら、どういうことになるのだろうか。

テレビも映画もそうだが、町娘が出てくると、かならず髪に簪(かんざし)をいくつもさして、ごたごた飾り付けるのが普通になってしまった。侍も、大刀と脇差を帯の一ばん下にさしているが、あれも小道具の刀だからいいようなものの、重い本物の大小だったら、腰にぶら下った形になる。大刀と脇差は、帯一枚をはさんでさせば、きちんと腰に落ちつく。
人を斬ったあと、血をぬぐいもしないで刀を鞘におさめるのが普通になってしまった。あんなことをしたら、あくる日、血と脂で刀が抜けなくなってしまう。ああいうときは、必ず研師に出して血のりを取らないと、刀が台なしになる。しかし、そこまでいちいち画面で説明するわけには行かないが、心得だけは必要だろう。

このごろの評判の、長く続いているテレビ映画で、主役の俳優が、中挿(なかざし)と簪をいっしょにしていた、とある大真打の落語家が嘆いていた。簪は、大てい銀の脚、中挿は篭甲あるいは黄楊(つげ)製で、形も違うし、髪にさすところも違う。その俳優が、テレビ出身なら無理もないが、いい役者といわれる舞台俳優の息子だけに、普段の勉強が足りない、と言われても仕方がないだろう。

こんなことを書いていると、きりがない。もう吉原もなくなってしまい、江戸の市井の俤(おもかげ)も失せた東京に住んでいて、むかしの風情や習慣を調べて小説に書いても、無駄な骨折のような気がするときもある。しかしだれかが書き残しておかねばならないのだから、読者にわかろうがわかるまいが、そこまで心配しないことにしている。流行語で言うと、気にしない気にしない、といったところか。

【作家・村上元三~昭和47年10月号掲載~】

※作品の転載を固く禁じます。


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