「内海桂子」激動の人生を生き抜いた不屈の人。老いも若きも多くを学べ!<第34回>浅草六区芸能伝|月刊浅草ウェブ

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東洋興業会長(浅草フランス座演芸場東洋館)松倉久幸さんの浅草六区芸能伝<第34回>「内海桂子(うつみけいこ)」

今回は、2020年8月に他界された演芸界の大功労者、漫才師の内海桂子師匠について、お話したいと思います。
亡くなる半年ほど前には東洋館に出演し、満97歳の元気な姿を見せてくれたのですが、残念ながらそれが最後の舞台となってしまいました。
浅草になくてはならぬ人がまた一人旅立ってしまい、何とも寂しい限りですが、生涯現役を貫いた見事な芸人人生、また、一人の女性・一人の人間としても波乱万丈を乗り越え逞しく生きたその姿勢は、多くの人に勇気と元気を与えてくれると思います。
『高齢化社会』ということは、裏を返せば「高齢者が元気になれば、社会が元気になる」ということ。医療崩壊阻止に貢献するためにも(笑)、桂子師匠の生き方から、明るく前向きな強い気持ちがいかに大切かということを、学んでいただけたらと思います。

内海桂子(本名・安藤良子)は、大正11年生まれ。母は一人娘、父も長男だったため駆け落ちし、行きついた先の千葉県銚子市で生まれました。1歳になる直前に関東大震災に遭い、一時他所の土地へ移りますが、両親の離別に伴い東京へ戻ってからは、浅草で育ちました。しかし家計は苦しく、わずか9歳で小学校を中退、神田錦町の老舗蕎麦屋に奉公に出されます。11歳で奉公を終え実家に戻った良子は、母の「芸は身を助く」との方針から、三味線や日本舞踊を習い始めました。このときはまさか、本当に以後80年以上にも渡って〝身を助く〟ことになるとは、思いもしなかったでしょうね(笑)。昭和13年、芸事もだいぶ上達していた良子は、かねてから巡業の手伝いをしていた漫才師夫妻(高砂家と志松・雀屋〆子)が子供を授かったため、産休中の代役を引き受けることとなりました。
浅草橘館で初舞台を踏んだのは、16歳の時。これが、漫才の世界に入ったきっかけです。

当初は代役のつもりだったのに思わぬ人気が出てしまい、と志松とのコンビはそのまま継続。巡業生活を続けるうちにお手付きとなり、未婚のまま20歳で男の子を出産します。しかし、やがてと志松とは公私ともに離別を迎え、戦争を挟んだ数年間は、ピン芸人として慰問の仕事をしたり、キャバレーに勤めたり、手作りの団子や稲荷寿司を吉原で売り歩いたり…子供のため、生きんがためには、どんな事も厭わず必死で働き続けたといいます。
戦後、林家染団治一門染芳とコンビを組み、本格的に漫才を再開します。染芳との間に女の子が出来、今度こそはと籍を入れたつもりが、戦後の混乱期にあって提出した婚姻届が受理されていなかったと知ったのは、ずっと後になってからでした。酷い話ですが、当時はこういう例も、決して珍しくなかったそうです。
さらに悪いことは重なり、数年後に染芳がヒロポン中毒となり、決別。漫才の相方も、なかなかこれという人には巡り合えず、不遇の時代は続きます。

転機が訪れたのは、28歳の時。同じ浅草出身で芸人夫妻の娘・奥田芳江と出逢い、女流漫才コンビ内海桂子・好江を結成したのです。この時、好江はまだ14歳、桂子のちょうど半分の歳でした。子供の頃から両親と共に芸の世界で生きてきた好江に、桂子は礼儀作法から着付け、三味線まで手取り足取り仕込んだそうです。負けん気の強い好江は成長著しく、厳しい稽古の甲斐あって、やがて桂子・好江は大きな花を咲かせることとなります。
コンビ結成から8年後の昭和33年には、NHK新人漫才コンクールで見事優勝。その後は直実に実績を重ね、女性コンビ自体が少なく決して地位も高くなかった時代において、昭和57年に漫才では初となる芸術選奨文部大臣賞を受賞。そして平成元年には紫綬褒章を、平成7年には勲四等宝冠章を授与されました。
…と、ここまで聞いただけでも目が回りそうな(笑)出来事の連続ですが、桂子師匠の〝人生ジェットコースター〟は、さらに加速度を増して乱高下を繰り返します。

後半生に襲いかかってきた悲劇は、平成6年に長男が、さらに3年後には相方の好江が、いずれも癌で返らぬ人となったこと。それまでも幾度となくつらい目に遭ってはきたものの、最愛の、しかも年若い者を相次いで失った悲しみは、想像を絶するものがあります。
よく、〈神様は乗り越えられる人にしか大きな試練を与えない〉と云いますが、桂子師匠はその言葉を体現するかのように、不屈の浅草芸人魂で試練を乗り越え、好江亡き後はピン芸人に戻り、気丈に舞台に立ち続けました。

どんなに急落しようとも、下りきった後には必ずまた上昇するのが、ジェットコースター。大きな悲しみの後には、それに見合うだけの喜びも、用意されているようです。
平成10年、漫才協会五代目会長に就任。そして私生活では翌年、なんと77歳にして人生初の結婚をしました。お相手の成田氏は24歳年下で、彼が40歳、桂子師匠が64歳の時に出逢い、10年近い事実婚生活を経ての入籍でした。歳の差婚だの何だのと世間では色々言われましたが、当人達にとってはごく自然の成り行きだったのでしょう、思いやりと強い信頼関係で結ばれた、素敵なご夫婦ではありませんか。結婚に際し、桂子師匠はインタビューで「墓守を雇った」などとユーモアたっぷりに答えていますが(笑)、事実、公私に渡り二人三脚で添い遂げたのですから、立派なものです。
芸人としては生涯現役を貫き沢山の人を楽しませ、私生活での晩年は温かな幸せに包まれ、江戸っ子らしくきりりと生き抜いた、最高の人生だったのではないでしょうか。

「江戸まち台東芸楽祭」の一環として過去2年に渡り東洋館で開催された『ビートたけし杯・漫才日本一』では、予想をはるかに上回る出場希望者が殺到し、現代でもこれだけ多くの若者が漫才師を夢見ているのかと、あらためて驚かされたものです。けれど昨年は、グランプリ該当者なしという結果に終わり、とても残念な思いに駆られたのもまた事実。厳しい言い方をすれば、テレビのバラエティ番組で繰り広げられている内輪の空騒ぎは、芸と呼べるレベルのものではないようにも思えます。そういうものを見て育った世代に本当の漫才が出来ないのは、無理からぬことかも知れません。
桂子師匠が育てた愛弟子のナイツロケット団の芸は、やはり基本が出来ているなと感じます。理屈抜きで無条件に笑えるということは、しっかりした芸があるということなんですよ。浅草芸人の卵たちにはきちんとした芸を身に着けて欲しいものです。そして次回以降のたけし杯では、文句なしのグランプリが毎年誕生し、末永い活躍の出来る漫才師が育つことを願っています。

若い世代の芸人志望の皆さん、内海桂子・好江の漫才の映像を、見たことがありますか?着物姿で三味線片手に登場し、歌あり、踊りあり、都々逸ありの華やかな舞台は、今の漫才の概念とは、また一味も二味も違ったものです。あれを現代にそのまま再現しろというのではなく(笑)、そういう素晴らしい芸があったことを、ぜひ知っておいて欲しいのです。芸の道を志すなら一生勉強、引き出しが一つでも大いに越したことはないですからね。大先輩たちは、例外なくそうやって腕を磨いて世に出たのです。
浅草は、芸の歴史の宝箱。どうぞ何度でも足を運び、ジャンル問わずの宝探しをしてみて下さい。もちろん、浅草フランス座演芸場東洋館を覗くことも、お忘れなく(笑)!

(「月刊浅草」編集人 高橋まい子)

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