吉村平吉先生は、昭和18年(1943)23歳の時に召集され、中国大陸に転戦している。兵科は「主計」(経理)で、位階は聞き漏らしたが、下士官だったという説もある。
吉村先生が敬慕してやまなかったエノケン劇団の文芸部員、菊谷栄が、昭和12年(1937)召集されて間もなく、中国戦線で戦死しているから、先生自身も「召集された以上は死は覚悟した」と話していた。
私の長兄も、昭和17年(1942)甲種合格で横須賀海兵団に入団、3ヶ月の教育訓練の後、空母蒼龍で、ミッドウェー海戦に参加、20歳9ヶ月の若さで戦死している。あの頃は、本当に恐ろしい時代であった。
吉村先生の部屋から、入営を前に、年賀に併せて書かれた挨拶状が、紙類に埋もれた中から発見された。どなたもご存知のない資料かと思うので、先ずご披露しておきたい。
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