【七曜座の4カ月】
先日、宮戸座の旧座元の山川金之助さんから拝借した佐藤靄子著「沢村源之助」の中にある、四世沢村源之助さんの舞台写真を見て1枚毎の素晴らしさに圧倒されてしまった。
川口松太郎氏の代表作、明治一代女に登場人物のモデルになった田甫の太夫こと源之助さんの美しい顔と姿は江戸歌舞伎の情趣を深く且懐かしく感じさせる。
切られお富、伊勢音頭の仲居万野、夏祭の女房お辰をはじめ役々の写真を見ていると身体がぞくぞくしてくるのである。
前記著者の佐藤靄子氏が「私などが田甫の太夫の舞姿を見たのは、昭和になってからですから、水もしたたるような美しい錦絵の役者時代を知らないで(以下略)、」と嘆いている。筆者は昭和4年、明治座に出演した源之助さん晩年の舞台を見ている筈なのにその記憶が全くない、たまたま当時浜町に住んでいた少年でしかなかったのだから仕方がなかった。しかし、今となれば口惜しくもある。
昭和11年4月20日、四世沢村源之助は前年4月明治座の舞台を名残に78歳で亡くなった。
この田甫の太夫こと四世沢村源之助の愛娘栄野さんを娶った木村錦花富子氏夫妻の息片岡千代麿改め五世沢村源之助さんが昨年の暮に亡くなった。
昭和5年1月の宮戸座で「一つ家」上演のために四世沢村源之助宅を訪ね教えを乞うた市川福之助(当時市川鶴之亟)さんは、五世沢村源之助の通夜の席で五世沢村源之助夫人(栄野さん)と50余年ぶりで対面したという。
「その時にお見かけしたきれいなお嬢さんにお悔やみを申し上げて来ました。」
正月に逢った折、福之助さんはいかにも感慨深げであった。
四世源之助氏は明治29年、大阪から東京に帰ってから大劇場と小劇場の両方に出演。
小劇場では吾妻座、宮戸座、常盤座、真砂座、演伎座、東京座なぞに出て、源之助ばりと呼ばれた役々を次々と見せて大向うを喜ばせてくれた、宮戸座だけに限って軌跡を1度は詳しくたどって見たいと思う。
4月の國立劇場に「島鵆月白波(しまちどりつきのしらなみ)」が出たからでもあるが、「女書生」も見たくなった。前記、舞台写真の中に弁天お照や妻木繁役の田甫の太夫西川流家元で鯉風会を主宰し、多方面に活やくしている。菊太郎は映画に入り、琴次郎は尾上菊之亟となり舞踊尾上流を起している。
3月末に歌舞伎座で赤坂芸妓衆による第34回赤坂をどりが2日間華やかに催された。振付に西川流、藤間流が当たっている。西川流は西川鯉次郎とあって、鯉三郎さんの名前が今回は見られないのが淋しい。プログラムの中に赤坂をどりの全上演目表があるが恐らく鯉三郎さんは第2回から振付を引き受けていたのではないだろうか。
その鯉三郎氏の若き日の志げるの舞台が出世小屋と云われた宮戸座に出演しているのに興味をひかれたのである。
七曜座と言うのは尾上具芙雀を長として前記3人他で組んだ勉強を目的とする六代目菊五郎門下の若い人達の集りと聞いている。
市川福之助記に依って七曜座出演の記録をたどって見よう。
昭和5年5月興行、1日初日13日間。
市川新之助、市川鶴之助、中村竹三郎、吾妻市之亟(現、市川福之助)、尾上松太郎、中村仙笑、市川新之亟、沢村半十郎。と七曜座の3人の出演中殆ど変わらない顔ぶれである。
中村竹三郎と3人が新加入だった。
1番目の「白石噺」で宮城野を琴次郎、信夫を志げる、大黒家惣之助を菊太郎。2番目に「いろは新助」3番目が「引窓」。4番目の「三人吉三」に志げるがおとせを勤めている。新之助のお坊、市之亟のお嬢、和尚が竹三郎だから充分見ごたえのある面白い芝居だったと思う。
この替りは14日初日、1番目の「本朝廿四孝」に勝頼を菊太郎、八重垣姫を志げる、濡衣を琴次郎と3人で1幕を出している。
26日初日12日間では、1番目の「檀浦兜軍記」では重忠を菊太郎、阿古屋を志げると琴次郎で1日交代と、七曜座の1幕。
いづれも午前10時開場、昼夜2回入替なしが当たり前だから役者も裏方も大労働である。
志げるが明治42年生れで、20歳と若く血気に溢れていたであろう、前に既に記したが鶴之亟にしても15歳で「沼津」のお米、「寿の門松」の傾城吾妻、「いろは新助」の井筒屋いろはをしている。