カルチャーセンターに飛び込み、初等科、研究科と2年間無欠席で通った。師の中川貞子は後年〝あなたは他の人と意気込みがまるで違っていた〟と云うことばで評してくれたものである。
卒業後は地元市川で、眼の不自由な方々の為のボランティア活動に参加、その仲間から借りた一本のテープが、私の運命を変えたのである。
それは、幸田弘子さんの朗読する、樋口一葉の名作「十三夜」。全身に震えが走った。
と、同時に自分の行く道に光が射した気がした。
〝あの子の側へ行けば、ズーズー弁がうつる〟、幼い日の津軽訛りを笑われ、いじめられた日々、その逆境の中で芽生えた大きな夢、〝そうだ⽑将来はことばで生きてみよう〟
摩り切れる程テープを聞き、幸田さんの生の舞台を観て、一葉の世界を追及していった。
11月23日は一葉さんの命日である明治29年この日、24歳と云う若さでこの世を去り、寂しい葬儀がとき取り行われたと云う。没後、100年以上の時間が過ぎて、紙幣に自身の肖像が取り上げられることを、夢にも考えてなかっただろう。
その生涯を貧困と戦い苦しみ抜いた人生、豊かさとは無縁だった女との戸惑いが見える。
昭和36年、女性文学者として初めて単独の記念館が、台東区竜泉に誕生した。これが「一葉記念館」である。
明治26年から27年にかけて、僅か10ヶ月程住んでいた龍泉寺町、しかし、この町に住んでいなかったら、作家樋口一葉は誕生しなかったであろうと思われる程、重要な土地でもあった。
10数回の転居をくり返し、それまでの山の手から下町へと居を移した一葉は、そこで「たけくらべ」の素材に出逢うのである。
「一葉記念館」では、毎年11月23日を「一葉祭」として、講演や朗読会が催され今日に到っている。講演の先生は、毎年各界から著名な研究者が招かれ、それぞれの見解で一葉さんを分析、その成果が披露されている。
朗読の方は……と云えば、これは何十年もの間、幸田弘子さんの独壇上であった。樋口一葉イコール幸田弘子の揺るぎ無い時代でもあった。
しかし、一葉作品の語り手を目指すなら、先ずはこの「一葉祭」への登用が第一の目標となる。
夢は大きい方がいい。当っても砕けない程の厚い壁が、目の前に聳えて行く手を阻む。
博品館や三越劇場での公演を重ねながら、思いはいつも「一葉祭」に向いていた。私にとっては帝国劇場も歌舞伎座も、「一葉祭」の前には、一介の小屋である。
小さな努力を重ねながら、虎視眈眈とその時を待った。
〝念ずれば花ひらく〟
チャンスが到来したのは、平成21年の「一葉祭」だった。
新五千円札の肖像となった平成16年、多くの来館者を迎えるようになる一方、開館から40年以上の月日が経過して、施設の老朽化が進んでおり、思い切ってリニューアルをと、台東区の英断で動き出していた。それから2年後、平成18年11月地上三階、地下一階和モダンなデザインの記念館が、リニューアルオープンしたのである。
そしてこれを機に、運営の仕方も少しづつ変化が見られ、新風が吹き込まれていった。
講談師の神田紅さんが「たけくらべ」を、人形師の辻村寿三郎さんは、「わかれ道」を人形の動きで表現、珍しいところでは演芸の宮田章司師が、江戸の売り声を独特のトークを混えながら披露したりと、それまでの講演、朗読一辺倒だったスタイルが、趣向を凝らした変化に富んだプログラムへと移行していった。
私に声が掛かった平成21年は、新内の岡本宮之助師とご一緒だった。生涯現役を貫き101歳で旅立った岡本文弥さんの一番弟子で、師亡き後はその後継者として、常に精力的に活動を続けている。更に、平成23年記念館開館50周年と云う、大きな節目を迎えた「一葉祭」にも、私が登壇することになったのである。
思えば途轍も無い大望を抱いて、一葉作品と向き合い歩き出して、27年の歳月が流れていたことになる。
執念……と言えるかも知れない。
そして、リニューアル10周年を記念する、その初日の舞台を務めることになっている。
記念講演は、「樋口一葉と森鷗外」と題して、札幌大学名誉教授、元学長の木村真佐幸先生である。木村先生とは平成23年50周年の「一葉祭」でもご一緒させて頂き、温厚なお人柄に加え、一葉研究に於ける鋭い視点には、いつも敬服している。今回もご一緒出来て、本当に光栄だと感謝し、役得とはこの事かと、改めて身を引き締めたものである。
良く晴れた暖かい一日で、北の国からお出ましの先生は、コートもホテルに置いて身軽にお運びになり、終演後はご無理を申し上げて「ヨシカミ」に……。
ご著書でしか知る事の無かった出来事を、目の前の先生の口から、直に伺うことの出来る幸せ、料理と共に極上の美酒を賜わった気がして、これも一葉さんのお引き合わせ?と掌を合わせたのである。
「一葉祭」での朗読「大つごもり」、身に余るお褒めのお言葉を添えて後日贈られたご著書、「樋口一葉と現代」は私の宝物となった。
熊澤南水 プロフィール
朗読家。
1941年東京生まれ。小学6年生のとき青森県西津軽から東京に移り、そこで津軽なまりを笑われたのが言葉へのこだわりの第一歩だった。
40歳のころ、偶然手にした一本のテープ、朗読家 幸田弘子さんが語る樋口一葉の十三夜が心に新たな、風を吹き込み、言葉への想いをつのらせた。以来、俳優 三上左京氏指導のもと、“南水ひとり語り”を全国各地で繰り広げている。
浅草の洋食ヨシカミの元女将が語りの世界で彩る。
◉女優 吉永小百合さんとともに下町人間庶民文化賞を受賞
◉文化庁芸術祭大衆芸術部門優秀賞を受賞