母は浅草の生まれというところから、つねづね江戸っ子であることを自慢にしていたから、戸藉しらべをしてみると、父親は陸中岩谷堂の出身、母親は能登輪島の産というから、とうていサラプレッドの江戸っ子とはいい難い。事実、火鉢を「し […]
続きを読む浅草誌半世 名随筆の足跡
浅草誌半世紀・名随筆の足跡<5回・山手樹一郎「娯楽のふるさと」>|月刊浅草ウェブ
私は子供のころ道灌山の東がわ、日暮里村の村外れに近いあたりに住んでいたので、道灌山へのぼるといつでも東南の南寄りのほうに浅草の十二階が見えた。そのころは三河島村から入谷あたりまでずっと田圃つづきで、高い建物などは一つもな […]
続きを読む浅草誌半世紀・名随筆の足跡<4回・高沢圭一「女剣劇と私」>|月刊浅草ウェブ
おかしなことなぞ、いくらも世の中にあるが、いまでも解らないことのひとつ・・・。ある日、大阪の何劇場だったか忘れたが、このたびはご多忙中を態々と私の劇を観ていただき、花まで贈っていただいて有難う・・・という意味の手紙を貰ら […]
続きを読む浅草誌半世紀・名随筆の足跡<第3回・寺内大吉「焼けトタンと赤とんぼ」>月刊浅草ウェブ
ぼくがひんぴんとその街へ出かけたのは、街のすべてが赤裸にむかれた直後のことであった。その街とは浅草吉野町。一瀬直行さんの寺があった。空襲のまっさかり、僕は一瀬さんと増上寺で発行している信仰雑誌を編集していたのである。編集 […]
続きを読む浅草誌半世紀・名随筆の足跡<第2回・渋谷天外「蛇骨湯の路地」>|月刊浅草ウェブ
浅草で半年あまりゴロゴロしていたのが、関東大震災のその前年というのだから、話はだいぶお古い。 住いは蛇骨の横の路地のつきあたりの弁当屋の2階、6畳と4畳半の2間で、映画館の帝国館や大東京の学士連中と合わせて5人の同居生活 […]
続きを読む浅草誌半世紀・名随筆の足跡<6回・真鍋元之「観音経とカレーライス」>|月刊浅草ウェブ
知合いの出版社を出ると、その足で上野の広小路へまわっていった。久しぶりに鈴本か、本牧亭のどちらでもいい、のぞいてみるつもりだった。が、合憎なことに鈴本は開場までに、まだ一時間もあり、本牧亭はその日、休席である。仕方がない […]
続きを読む浅草誌半世紀・名随筆の足跡<第1回・村上元三「気にしない気にしない」>|月刊浅草ウェブ
いつぞや取材にきた新聞記者に話したことだが、わたしのように時代小説ばかり書いていると、ふっとニの足を踏むときがある。たとえば、江戸のころの市井の言葉づかい、あるいは名称を使っても、若い読者にわからないのではないか、と考え […]
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