明治18年から130年間、六区の「臍」と呼ばれる「公園六区交番」。昨年6月街の歴史を踏襲するアールデコに衣替えすると、それに呼応するかにドン・キホーテ・まるごと日本・東洋興業は渥美清・伴淳三郎・ビートたけし・永井荷風ら浅草ゆかりの人物をシャッタ ーに描き、信号のない五差路は渋谷のスクランブルとは一味ちがう人間模様に溢れている。
明治中頃、浅草田島町(西浅草二)に木炭業を商う田代旋太郎なる人物がいた。大の芝居好きで商売もそこの六区通い。それが高じて曾我廼家茄子なる役者者になった。更には劇場経営を夢見て明治42年(1909)オペラ館を開館する。大正12年大震災に遭うがそれにめげず演劇・オペラ・レビューの小屋を再開した。
芝居好きが地元に根を生やした地場プロデューサーだから粋な小屋ができる。二等辺三角形の敷地目いっぱいに、ユニークな洋風の小劇場を建てた。交番南隣りであり、イラストが当時の趣きである。
水族館2階カジノフォーリー「エノケン」の舞台を見て驚いた。モダンなアイデア、洒落のセンス、スピ ード感、全てが時代を先取っている。昭和6年〈ピエル・ブリアント〉を常打ちにすると大当り。だがエノケンの野望は田代の想像を超えていた。翌年座員150名楽士25名日本最大の劇団を結成し、大劇場「松竹座」に移ったのである。
昭和7年館名を前面に浅草オペラ界の名テナー田谷力三を引っ張り出すと一世を風靡するオペラブーム。更に清水金一らを加え、軽演・レビュー劇団《ヤパン・モカル》(やっぱり儲かる)を登場させると洒落た内容が通受けしグングン人気を伸ばして行った。
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