あさくさ「つれづれの記」<第1回>田中けんじ|月刊浅草ウェブ

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る

科学的見地では、以前東京市が行ったボーリング地質調査で、待乳山聖天一帯は古代上野台に続く沖積層の丘陵地で、待乳山から鳥越蔵前にかけての地盤が最も固く、こちらも丘陵続きと考えられ、元和六年(1620)浅草御米蔵建設には鳥越の丘土を削り、埋立てたとの記録が残っている。待乳山も昔はもっと高く境域も広く、盛土して古墳に私用とされた。江戸湊から浅草に遡る船は、待乳山をめあてに帆をはらました。
浅草御米蔵建設同年、隅田川洪水対策として幕府は各大名に命じ、聖天町から三ノ輪にかけて日本堤を築かせた。多量の盛土が必要なことから待乳山一帯が削り取られた。
三十七年後の万治元年(1657)、明暦の大火を期に浅草寺北、土手の西側を新吉原遊郭と定める。以来三百年、燦然と闇夜に浮かぶ不夜城として君臨することになる。
若気の至り、昭和33年浮かれ桜にフラフラと吉原初見参「よろしく!」「あんちゃん先週で幕引きだよ。」
「……ん?」三百年の証人になり損ねた!?

江戸名所を描いた広重の図柄。絵日記でも隅田川両岸中待乳山附近が勝れていると評し、満月、雪、「真乳山上見晴乃図」猿若三座浅草寺とさまざまに描出している。
歌謡にうたわれる江戸時代、長唄、富本節、半太夫節に詠みこまれ、常盤津では、〽花川戸恋のまつちに三めぐりや。粋な趣きである。

歌舞伎十八番「隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)」、桜花爛漫隅田川渡し場、聖天町の法界坊が悪事をユーモラスに展開させる。菊五郎・吉右ヱ門・勘三郎、それぞれの至芸で楽しませる。奥山おまいりまち参道に場面の依頼を受け思わず膝を打った。
そりゃァ主役は睨みをきかせた法界坊だが待乳山聖天、今戸橋、三囲鳥居とくれば創作意欲をくすぐる。描く時は一生懸命いずれは消え行くシャ ッター絵、埃をかぶったり傷ついたり、この儚さが人生と重なる。
制作は真夏、カンカン照りの熱中症が大敵と思 ったら、伝法院池の籔蚊とボコボコ合戦余りの悔しさに、画号を歌鳥線香に改めた。

(田中けんじ, 2016年) 

田中憲治 デザイン事務所「レタスト」http://www.letterst.jp/profile/index.html

※掲載写真および作品の無断使用を固く禁じます。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る

公式月刊浅草ウェブ|メールマガジン登録

【登録時間わずか1分】

公式月刊浅草ウェブでは、浅草の文化芸能を知りたい方へ毎月1回メールマガジンを配信させて頂きます。

ご興味ある方はぜひご登録よろしくお願いします!

※記入項目は3項目(メールアドレス・お住まい・ご興味持った理由)

※クリックしますとGoogle Formへジャンプします。

個人情報の取り扱い・プライバシーポリシーをご確認下さい。


メールマガジンご登録はこちらです