あさくさ「つれづれの記」<第1回>田中けんじ|月刊浅草ウェブ

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〽おぼろづくよか薄墨か絵に描くさまの待乳山

ほのかに霞む春の宵、音無川の流れの果てに、隅田川とあまり水位が変らない山谷堀は澱むでもなく静かに流れ、河口に竹屋の渡しと呼ばれる桟橋が浮いている。
待乳山聖天の堂字を見上げ、二梃櫓の障子船や屋形船が、三味の音も軽やかに、今戸橋から堀に入ってくる。
男女が歓喜を交わす秘仏が本尊とは吉原口に極まれり。ところが余りの繁昌に、船だまりは狭さと引き潮が重なり進めず引けず、身動きもままならぬ有様、見かねた幕府は正徳三年(1713)猪牙舟だけが堀に入ることに改めた。今戸橋を渡った川岸には上流階級が贔屓の料亭有名楼がある。山谷堀の賑わい、対岸三囲の眺望が好まれた。やがて朝野新聞社長となる文人ジャーナリスト成島柳北は、侠気と才力で経営する有名楼のお菊について、彼女の上を行く者はいないと褒めている。

真土(待乳)山という名称は、紀州駿河と各地にあるが、和歌山と奈良の県境、JR和歌山線「隅田駅」北東4㎞にある真土山(待乳山)は興味深い。七、八世紀頃、大和(奈良)から紀州(和歌山)に入る旅人は、歌枕の地真土山を越えた。西に隅田一族の氏神隅田八幡があり、高野山と真土山の麓を隅田川(角田、住田)が紀ノ川に注ぐ、名称は浅草の趣きである。(地図参照)

承和二年(335)「類聚三代格」に武蔵国下総両国堺「住田川」が初見される。浅草辺りが交通要所と考えられ宝亀二年(771)東海道に編入後、渡船往来の要衝となり、在原業平(824〜880)の東国伝説、西国旅人歌人らは風光明媚な丘陵の眺めに大紀の真土(待乳)山を偲んだのではと想いが広がる。

待乳山聖天の縁起は推古天皇三年(595)突然地面が盛り上り、やがて小山となりそこに金龍が舞い降りた。日照りと飢えに苦しむ人々に大聖歓喜天が現われ救いとなり、庶民の尊信が集まり、今日に至ったとされる。浅草七福人九社寺のひとつでもある。

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