新事業を何としてでも成功に導かねばとの思いから、東洋劇場には、ロック座と新宿・池袋の両フランス座からエース級の芸人たちが配属されていたのですが、彼らとの出逢いこそが萩本にとって、最高の追い風になりました。
初代座長となった池信一は、なかなか芽の出ない萩本が周囲からもう辞めろ!と心ない言葉を浴びせられても、未開の能力を信じ、何度となく庇ってくれましたし、味のあるコメディアンとして定評のあった二代目座長の石田英二は、厳しいながらも、自身の背中を見せることで熟練の芸を伝授してくれました。ですから、池も石田も、萩本にとっては偉大な先輩であり、師匠と言える存在でもありましたしたが、何といっても彼にとって最大の恩師となったのは、二人が去った後三代目座長に就任した、東八郎です。
芸人というのは普通、後輩に対して細かい指導をすることはありません。新人はそれこそ使いっ走りでも何でもして(笑)四六時中先輩の後ろをついて回り、その芸を目に焼き付け、体に染みこませて、自ら学んでゆくものです。 ところが東は、違ったんですね。ここはこう演るんだよ、こうすれば受けるんだよと、本当にきめ細かく、一から十まで手取り足取り丁寧に教えてやるのです。彼は芸人としてももちろん素晴らしい才能の持ち主でしたが、人を育てる能力にも非常に長けていました。もともと根が優しく面倒見の良い性格でしたし、自身が先輩たちに可愛がられてその才能を伸ばしてきた経緯がありますから、今度は自分が後輩を育てて恩返しをするんだという気持ちも、あったのだと思います。
芸の上だけでなく、私生活の面でも、東はずいぶん萩本を助けたのではないでしょうか。当時、萩本の実家は不振だった家業がいよいよ倒産という憂き目にあい、経済的にも大変だったはずですし、寂しい思いもしていたでしょう。そんな彼にとって東は、師匠であり、恩人であると同時に、優しい兄のような存在だったのかも知れません。いずれにしても、“八郎兄さん”との出逢いが”欽坊”の未来を大きく切り開いたことは、間違いありません。
それにしても、人の縁というのは実に不思議なものだと、つくづく思います。ともに江戸っ子、子供の時から浅草喜劇に親しんで育ち、同じような年頃で東洋興業に入ったというよく似た境遇の二人が師弟として出逢い、そのどちらもが、日本中に笑いを届けるような素晴らしいトップコメディアンになったのですからね。
成功の要因は、本当にさまざま。才能、努力、時の運…どれも必要不可欠ですが、中でも一番の決定打となるのは、やはり、よき出逢いではないでしょうか。そして、さらに大切なのは、その出逢いに感謝し、何かを学ばせてもらおうという、素直な心。そういう真っすぐな心を持った者だけが、与えられたチャンスを、結実させてゆけるのだと思います。
さて、満を持してオープンした東洋劇場は、おかげさまで順調な滑り出しを見せましたが、上階に移ったフランス座のほうの人気も相変わらず根強く、客席の多い東洋劇場よりも、かえって入りが良い、という日もありました。そこである時、両劇場のコメディアンをトレードさせるという面白い実験を試みたのです。
この時、萩本はフランス座へ移動となったのですが、ここでも彼は、劇的な出逢いに恵まれたのです。
“安藤ロール”という変わった芸名のその先輩は、後にコンビを組み、「コント55号」として大ブレイクを果たすことになるアノ人、そう、運命の相方でした…!
松倉久幸(浅草演芸ホール)
(口述筆記:高橋まい子)
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