深見に限らず、昔気質の芸人には、少なからず〈借金してでも、張るべき見栄は張る!〉みたいな部分がありました。苦しくても、弟子や後輩たちにはつい大盤振る舞いしてしまったりね。そして、飲食店の主たちがまた、揃いもそろって人情家でしたから、解っていながら〝永遠のツケ〟を受け入れてしまうんです(笑)。おおらかな時代だったと云えばそれまでですが、舞台を離れた処でのこういった温かな交流が、浅草芸人らを物心ともに下支えし、芸に深みを与えていたことは確かです。
おおらかな時代といえば、もう少し時計を逆巻いて、まだまだ六区が隆盛だった頃の印象深い思い出をひとつ、貴重な写真を交えてお話しましょうか。
昭和40年代に入ると、浅草六区の芸能は衰退の一途を辿るばかりでしたが、景気の良かった昭和30年代まで東洋興行では、社員・芸人・踊り子総出の慰安旅行を慣行していたのです。ちなみにたけしがうちの小屋へ来たのは昭和47年ですから、残念ながら彼は、この旅行を経験していません。
慰安旅行といっても、そのために何日も小屋を閉めるわけにはゆきませんので、日程は1泊2日。しかも、夜9時に舞台が終了すると大急ぎで小屋を閉め、10時頃までに貸し切りバスに乗り込んで出発するという超・強行軍!数時間、バスに揺られて仮眠をとり、現地へ着くやいなや大宴会へなだれ込む…という算段です(笑)。
目指す宿は、熱海のつるやホテル。当時、熱海のシンボルともいわれた豪華なホテルでした。規模も大きいけれど、器量も大きいといいますか、こちらの仕事の事情を汲んできめ細かく対応して下さり、本当に助かりましたね。下の記念写真(昭和37年3月撮影)を見ればわかる通り、我々一行の総勢は、優に100人を超えています。これだけの団体が深夜過ぎに到着するのを快く受け入れてくれたのですから、本当に有難いことでした。
集合写真の中では、一人ひとりは豆粒大で(笑)、とても細かな表情までは判りませんが、ほんの束の間、厳しい日常から離れて誰もが楽しげに寛いでいる様子、そして昭和半ばという時代の空気が、伝わればいいなと思います。
そして、おまけのサービスショット(笑)。これは、集合写真の一部を引き延ばしたものですが、○印で囲った三人、誰だかわかりますか?
…正解は、右から東八郎、萩本欽一、坂上次郎です。僅かに面影を感じ取れるのは、欽坊ぐらいかな(笑)?
どんなスターも、最初は普通の青年でした。出逢った人や、育ててくれた街、生まれ合わせた時代…その中に溢れていたたくさんの温情によって、大きく羽ばたくことが出来たのです。
巡り巡ってもう一度、浅草からスターを育てることで、世の中に恩返しが出来たら嬉しいですね。
こんな時代だからこそ、尚さらに…!
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