入口を入ると、チケット売り場の右手にエレベーターがあります。ファンにはおなじみかと思いますが(笑)、昭和40年代後半にエレベーターボーイを務めていたのが、コメディアン志望の青年だった北野武です。当時はエレベーターも今とは違い手動式(!)でしたから、係員が必要だったのです。このエレベーターの中でたけしは、生涯の師・深見千三郎と運命の出逢いを果たしました。
ちなみに、エレベーターの正面には4階まで続く階段があり、階段横の壁にはたけしの描いた絵(複写)が飾られています。
エレベーターで4階へ上がると、ロビーへ出ます。
さて、場内へ入ってみましょう。
客席から視線を上へやると、欄干が見えますね。これは、かつて寄席として使っていた頃の名残りです。浅草演芸ホールの新設はいわば大きな賭けでしたが、ありがたいことに落語ブームの追い風に乗って順調に客足は伸び、連日2階席まで溢れんばかりの人で埋め尽くされました。今となっては真っ赤な欄干だけが取り残され、少し寂しい感じですが、ひしめき合うお客様の合間を縫って着物姿の〝お茶子さん〟が飲み物をお出しする光景は、なかなか風情があったのもです。
こちらは、映写室。ここも、かつては2階席でした。現在では、浅草活弁祭りや恒例の浅草オペラ等、限られた公演でしか使うことのない映写設備ですが、それだけでは勿体ないと常々思っていますので、何らかの形でもっと活用できたら良いですね。何せこの土地はもともと、三友館という大きな映画館が建っていた場所です。折角いつでも使用可能な映写機があるのですから、浅草映画文化の灯を、絶やさず繋いでゆかなければね!
お次は、舞台袖。そして、黒いカーテンの奥の階段側が、楽屋です。それから、映写室のすぐ裏手にも特別な楽屋があり、ここには訪ねて来られたお客さんを通したりもします。楽屋は、舞台の上と下の階にもありますが、昔はここに食うや食わずの貧乏芸人たちが、しょっちゅう寝泊りしていました。たけしも一時、下の楽屋に暮らしていたんですよ(笑)。なんてったって、劇場には徹夜稽古用の布団もあれば、風呂もある。踊り子さんからの差し入れや、先輩のおごりで腹を満たし、外に出る時はちょっと衣装を私服代わりに拝借すりゃ、衣食住、すべて賄えますもんね!知恵を絞れば雀の涙ほどのギャラでも、何とか生きてゆけたんですよ(笑)。修業時代は誰もが苦しい生活ですが、そんなギリギリの暮らしのなかで培われた芸だからこそ、磨きがかかったとも言えるのではないでしょうか。
かつて劇場という空間は、単に芸を観せるためだけの場所ではなく、芸人を育て、養い、羽ばたかせてやるための、ある意味では家庭にも似た役割を果たす、かけがえのない場所だったのです。今もなお、わが小屋に残るそんな時代の片鱗を感じ取り、令和の芸人の卵たちにも、先輩らの芸にかけた情熱を受け継いでもらえれば、何よりです。
そんな視点から捉えてみると、観る側としてもまた、劇場に対して今までとは少し違った興味、感慨が芽生えてきませんか?
わが小屋の歴史が、時流に合わせた変化を重ね今に至るのと同様、芸能そのものが、時代に育てられるという側面を持ち合わせています。足し算・引き算を繰り返した建物はどこかアンバランスで、ヘンテコに見える部分もあるでしょうが(笑)、それゆえに魅力が増し、味わい深くもある。コロナ後の芸能も、苦悩の時を抜け、輝きを増す可能性を大いに秘めています。我々浅草六区も一丸となり、常に強い気持ちで良き方向へ舵を取ってゆきたいものです。
さぁ、自粛生活も、もう少しの辛抱です。今は館内に〈マスクをしながら笑いましょう〉なんて貼り紙がされていますが(笑)、マスクなしでも笑える日を、楽しみに待つことにいたしましょう。その頃には、もしかしたらこの浅草六区にも、より進化した思いもかけない芸能やスターが、誕生しているかも知れませんね!
浅草演芸ホールも東洋館も、その日に向けていつでもスタンバイOK!の体制で、皆さんを待ち続けております。
(同行取材:編集人・高橋まい子)
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