東洋興業会長(浅草フランス座演芸場東洋館)松倉久幸さんの浅草六区芸能伝<第29回>「林家彦六(はやしやひころく)」
わが社が浅草演芸ホールを新設したのは、ちょうど現在と同じように東京オリンピックを目前に控えた、昭和38年のことでした。これまでやってきたロック座、フランス座、東洋劇場はいずれもストリップと軽演劇のための小屋でしたから、寄席経営はいわば大きな賭けだったのですが、振り返ってみれば、つくづく良い時代に巡り合わせたと思います。なにせ当時は空前の落語ブームの走り、売り出し中の若手もさることながら、桂文楽、古今亭志ん生、三遊亭圓生…今となっては伝説級の錚々たる噺家たちが、まだ現役で高座を沸かせていた頃でしたからね。
そんな名人の一人に、“トンガリの正蔵”、“稲荷町の師匠”と呼ばれる、昔気質の噺家がいました。
八代目・林家正蔵(のちに彦六)は、明治28年、東京は品川の生まれ。尋常小学校卒業後数年間の丁稚奉公を経て、17歳の時に二代目・三遊亭三福に入門し、落語の道へ入ります。大正7年二つ目昇進、大正9年真打昇進。
昭和25年、一代限りの条件で海老名家より正蔵の名跡を借り、八代目・林家正蔵を襲名。正蔵の名は九代目となる三平に自身の死後返上する約束だったのですが、昭和55年、30歳も年若い三平が思いがけず急逝すると、早々に名跡返上を決断し、以後彦六と名乗りました。
この律義さ、頑ななまでに筋を通す気質こそ、〈トンガリの正蔵〉と云われた所以です。曲がったことが大嫌いですぐにカッとなる性分は時にトラブルの種にもなりましたが、その本質は実に純粋で、愛すべき人物だったのです。
>次ページ「それでも、あえて残して欲しいものとは…」