「猿若三座」吉原と連動して栄えた芝居町・猿若町の歴史<第28回>浅草六区芸能伝|月刊浅草ウェブ

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江戸歌舞伎の始まりは、江戸時代初期の1624年。京で活躍した猿若勘三郎という狂言師が、現在の京橋付近に猿若座(のちに中村座と改称)という常設の芝居小屋を建てたことに端を発すると言われています。
世が安定し、人々の生活に余裕が生まれるとともに、歌舞伎は町人の娯楽として定着し、あちらこちらに芝居小屋が乱立するようになりました。
しかし歌舞伎人気は、お上にとって面白くないことだったようです。主な理由は二つ。一つめは、町屋の間に立つ芝居小屋が建物の構造上、当時頻発していた火災の元凶になりかねないこと。そしてもう一つは、芝居見物やそれに伴う派手な遊びに興じる者たちが、風紀を乱すと考えたからです。そうした危惧から市中に散らばる多くの小屋は1670年代頃までに次第に整理され、最終的には最古の中村座を筆頭に市村座森田座の三座のみが公に歌舞伎興行を許され、官許三座と呼ばれるようになりました。
ちなみに、ちょうど時を同じくして、日本橋にあった吉原も、浅草日本堤への移転を余儀なくされています。
平たく言えば、“将軍様のお膝元に、如何わしきものがあってはならぬ!”というわけです。当時から、娯楽・風俗への風当たりは、大分きつかったことが伺えますね。

時代は進み、天保年間(1830~1843年)。
日本史の授業はお昼寝タイムと決め込んでいた人も、〈天保の改革〉はご存知ですね(笑)?時の老中・水野忠邦による悪評高きこの改革は、質素倹約・贅沢禁止を旨とし、その徹底した締め付けは、民衆の生活から娯楽・風俗にいたるまで、ありとあらゆる場面に及んだのです。
歌舞伎に対する弾圧もまた、容赦なく行われました。それまで中心地に点在していた官許三座も慣れ親しんだ地を追われ、半ば強制的に郊外への移転を命ぜられます。
その移転先こそが、浅草寺裏に位置する聖天町、のちに中村座の創設者である猿若勘三郎にちなんで改名されることとなる、猿若町だったのです。
幕府は、風紀を乱す芝居小屋とその従事者を郊外の一角へ封じ込め、城下から悪しきものを一掃しようと考えたわけですが、皮肉にもこの目論見は、真逆に作用することとなりました。

新天地での官許三座は、あらたな町名の下に猿若三座として親しまれ、天保の改革がわずか2年ほどで頓挫し、統制が緩み出すと、一気に客足を伸ばしました。それもそのはず、城下から見れば僻地でも、、浅草寺と吉原を前後に臨むこの場所は、朝から晩まで人の流れが途切れない、芝居町としては最高のロケーションだったのですから。
そればかりか、小屋が一所にまとまったことで役者同志の交流が活発になり、以前より格段に演目が充実したり、市街地では常に心配が絶えなかった火災による損益が激減したりと、当初の絶望的な見通しとは裏腹に、まさにいいことずくし! 
常軌を逸した締め付けによって自らの首をも絞める結果を招いてしまった水野忠邦は、予想外のこの展開に、きっと歯ぎしりをして悔しがったことでしょうね(笑)。

こうして猿若町は、日本の誇る伝統芸能・歌舞伎を育てた芝居の聖地として、また江戸を代表する歓楽街としても栄華を極め、長きに渡り隆盛を維持し続けました。
猿若三座は明治に入ってからも存続していしましたが、時代の波には勝てなかったのでしょう、その後は徐々に客足も遠のき、明治5年、森田座が撤退したのを皮切りに、中村座、市村座も次々と他所へ移り、猿若町の芝居小屋は明治25年までに全て姿を消してしまいました。
それでも何軒かの芝居茶屋は、実に昭和初期まで現存し、華やかなりし時代の風情を物語っていたということです。

“臭いものには蓋”的な発想は、悲しいかな、人間の持つ普遍的な性のようです。しかしそんな迫害をものともせずに独自の発展を遂げた猿若町の逞しき演劇人らの功績は、同じようなシチュエーションの下に築かれた浅草大衆芸能の基礎となり、現代まで受け継がれています。

本来、迫害を受けるべき人間など存在しないはず。どんな境遇の人であれ、ただ己に課せられた宿命を一生懸命に生きているというだけの、同志なのです。
浅草は、どんな人をも差別せずあるがままに受け入れてきた、優しい町。そのおおらかな気質こそが多様性を生み、幅広い分野に及ぶ芸能を、開花させたのだと思います。

いつの日かまた、この浅草六区興行街にかつての活気を取り戻し、伝統の大衆芸能を通して日本中、世界中に元気な笑い声を届けることが、我々の切なる願い。そのために、才気あふれる人材の発掘が必須なのは言うまでもありませんが、それと同じくらい大切なのが、彼らを温かく受け入れ、見守ってゆく土壌作りだと思うのです。
はるか昔から培われてきたこの地域の人々の優しさや人情味は、芸事に携わる者にとって、またとないない宝物。彼らがのびのびと修業時代を過ごし、大成につながる土壌を提供できるよう、皆で協力してゆきましょうね!

(口述筆記:高橋まい子)

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【浅草演芸ホール】浅草唯一の落語定席 明治17年から続く浅草笑いの伝統!

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