「大衆芸能のメッカ・浅草」昭和~平成~令和 街と大衆娯楽の変遷<第17回>浅草六区芸能伝|月刊浅草ウェブ

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東洋興業会長(浅草フランス座演芸場東洋館)松倉久幸さんの浅草六区芸能伝<第17回>「大衆芸能のメッカ・浅草」

先日、浅草花やしき内に、様々なエンターテインメントを発信する「浅草花劇場」が新設されました。これは浅草にとっても、芸人を育成する立場の我々にとっても、大変嬉しいニュースです。なぜなら、せっかく素晴らしい才能を発掘しても、実践の場・学びの場が乏しければ、若き芸人達は、実力を培ってゆくことが出来ないのですから。
これを皮切りに、一つ、また一つと新たな小屋が誕生し、欲を言えば実演劇場のみならず映画館も再建され、大衆芸能のメッカ・浅草復活へのムーブメントへと繋がってくれれば、有難いのですが!
 
令和元年の幕開けにそんな願いを込め、今回は、伝統に学びがらも時代に沿った良質なエンターテインメントを生み出す土壌を作り、地域全体を盛り上げてゆくためにはどうしたらよいのかを、活気に溢れていた頃の浅草の姿とオーバーラップさせながら、考えてゆきたいと思います。

15歳の頃から父の下でロック座やフランス座の手伝いを始め、それから約70年、この街で興行の仕事一筋に携わってきた私は、戦後の浅草六区興行街の栄枯盛衰とともに生きてきた事になります。
近年では、スカイツリーの開業や、来年に迫った東京オリンピックの追い風も味方して、緩やかながらも客足の回復傾向が見られますが、それにしても最盛期のあの賑わいが目に焼き付いている身としては、現状を大変寂しく思うのが正直なところです。

今の浅草に欠けているもの…それは一体、何なのでしょう?私たちは、どんな努力をしたら良いのでしょうか?

戦争で壊滅的な被害を受け、もはやこれまでかと思われた六区興行街でしたが、復興に向けた人々のエネルギーは著しく、その回復劇はまさに感動的なものでした。ロック座の開場も昭和22年ですから、実に終戦のわずか2年後ということになります。どんなご時世においても、人々は娯楽を渇望しているのですね。その後も次々と大小の娯楽施設が立ち並び、昭和20年代半ばには、まるで戦前の賑わいを取り戻したかのようでした。
それから約10年程が、浅草六区興行街の最も華やかなりし時代。実演劇場もさることながら、まずこの時代の浅草と言えば、映画館の存在抜きに語ることは出来ません。
 
フランス座は、ちょうど六区の中心辺りに位置しています。昭和26年の開場当初からここで働いていた私は、映画全盛期の凄まじさを目の当たりにして過ごしました。
当時、映画の封切は浅草に限定されていたので、毎週新作が上映される火曜日には、一般のお客さんはもちろん、全国各地から映画の興行師たちも大勢訪れました。
現在ドン・キホーテのある場所が大勝館、ROXのところが松竹座、パチンコ店・サンシャインのところは東映、うちの隣が日活で、通りを挟み正面には電気館と千代田館。
各映画会社の社長さんたちが、なんと自ら封切館の前に立ち、声を張り上げての呼び込み合戦!城戸四郎さん、大川博さん、堀久作さん、永田雅一さん、大蔵貢さん…今にして思えば、日本映画界を牽引したそうそうたる顔ぶれが勢揃いしていたのですから、すごいことですよね。
 
通りの両側には色とりどりの幟がはためき、道を渡るにも往生するほど、周囲を埋め尽くす人・人・人。切符売り場は大混雑で計算している暇もないので、横にみかん箱を置いて(笑)、じゃんじゃんお金を放り込んでゆく有様…。そういう時代だったんですね。まさに映画の旬は、浅草に集約されていたというわけです。

映画館の隆盛は、間接的に、実演劇場で修行する浅草芸人たちの後の活躍にも、大きな影響を与えました。そのカギとなったのが、「興行パス」なるものの存在です。

興行パスとは、この界隈の劇場や映画館に自由に出入りし、無料で鑑賞することが出来るという、大変有難いパスポート。本来は興行会社の従業員やマスコミ関係者に配られていたものですが、実は暗黙の了解(?)で、芸人たちも大いに活用していました。
貧乏暮らしの彼らにとっては、わずかばかりのギャラの使い道といえばまず第一に食べることなので(笑)、当然、芸術鑑賞どころではありません。ジャンル問わず多くの作品を観て目を肥やし、自分の中の引き出しを増やすことが芸人として飛躍するために必須と重々解ってはいても、そんな余裕などどこにもないのです。一番勉強が必要な若い時に、一番金がないという無情な現実。そのジレンマを解消してくれたのが、興行パスでした。
当時のフランス座は終演が9時でしたから、それからでもギリギリ映画の最終回に滑り込めるんですね。熱心な芸人は、舞台がハネた後映画を観て、それからまたキャバレーのショクナイに精を出す。寝る間も惜しんで働き、勉強し、遊びもし(笑)、そうやって芸に磨きをかけながら、スター街道を駆け上がって行きました。渥美清にしても、長門勇にしても、みんなそうです。そして、そんな大先輩たちの活躍をスクリーンの中に観るにつけ(やはり同じように、興行パスのお世話になってね)、後輩芸人たちは、よし、俺も必ずあんな風になるんだと奮起する…そんな良き循環が、 確かに存在していたのですね。実演劇場と映画館はこんな風に、互いの繁栄を還元しつつ、共存関係を保っていたわけです。

昭和20~30年代の世の中で上手くいっていたことをそのまま現代に持ち込んで成功するのかといえば、それは勿論、無理なお話。これからの浅草を良くしてゆくためには、今の社会情勢、現代人の気持ちにフィットしたやり方を模索し、実行してゆかねばなりません。けれど、過去を知り、過去から学ぶことも、とても重要。なぜなら、「今」は 過去の積み重ねであり、「伝統」は、過去の人々が一生懸命に生き、紡ぎ続け、今を生きる私たちに手渡してくれた、この上もない宝物なのですから。

大衆芸能こそ、浅草の宝物。これからも末永くその伝統を守り、ますます発展させてゆくために大切なのは、突き詰めていえば、私たち一人一人がこの極上の宝物に誇りを持ち、街一丸となって後押ししてゆく空気を作ってゆくことではないでしょうか。

劇場も、商店も、飲食店も、宿泊施設も、個々に存在するだけではなく、「大衆芸能のメッカ浅草」の一部なのだというもう一つの視点を持ち、手を取り合いながら頑張ってゆけたなら、必ずや明るい未来に繋がるはずです。

(口述筆記:高橋まい子)

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