「猿若三座」吉原と連動して栄えた芝居町・猿若町の歴史<第28回>浅草六区芸能伝|月刊浅草ウェブ

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東洋興業会長(浅草フランス座演芸場東洋館)松倉久幸さんの浅草六区芸能伝<第28回>「猿若三座(さるわかさんざ)」

今回はぐっと時を遡り、江戸時代に栄えた芝居町・猿若町のお話をいたしましょう。
かつての六区興行街がそうであったように、花街と連動して一時代を築き、江戸の芝居文化の中心地として大きな役割を担った華やかなりし場所がこの浅草に存在していたことを、ぜひ知っていただきたいと思います。
“時代は、繰り返す”とはよく言ったもの。長い歴史の中で何度となく似たようなことが起き、人々はそこから学んでゆく。猿若町の奥深い歴史の中にも、我々が地域を上げて取り組んでいる元気な浅草再生へのヒントが、隠されているのではないでしょうか?

猿若町があったのは、現在の浅草六丁目界隈。浅草寺の裏手、言問通りを渡って少し奥に入った辺りです。
どこか懐かしさの漂う落ち着いた住宅地に昔の賑わいを物語る痕跡はこれといってなく、今では「旧・浅草猿若町」の立札と、3つの石碑がひっそり点在するのみですが、かつては道の両側に芝居小屋がずらりと軒を連ね、沢山の幟がはためいていたといいますから、ちょうど全盛期の六区のようだったのでしょうか。その様子は、歌川広重の浮世絵にも、生き生きと描き残されています。
そもそも、なぜこの界隈が江戸きっての芝居町にして歌舞伎の中心地となったのか。まずはその成り立ちからご説明しましょう。

>次ページ「中村座を筆頭に市村座、森田座の三座のみが公に歌舞伎興行を許され、官許三座と呼ばれるように!」

浅草演芸ホール

【浅草演芸ホール】浅草唯一の落語定席 明治17年から続く浅草笑いの伝統!

浅草演芸ホールは、鈴本演芸場(上野)、新宿末廣亭、池袋演芸場とならぶ、東京の「落語定席」のひとつです。
「落語定席」とは、1年365日、休まずいつでも落語の公演を行っている劇場のことで「寄席(よせ)」とも呼びます。
昭和39(1964)年のオープン以来、10 日替わりで落語協会と落語芸術協会が交互に公演を行っています。
落語のほかにも、漫才、漫談、コント、マジック、紙切り、曲芸、ものまねなど、バラエティーに富んだ番組をご用意しています。
昼の部と夜の部は、原則として入替えがありませんので、お好きな時間においでになって、心ゆくまで「演芸」をお楽しみいただけます。
萩本欽一やビートたけしなどを輩出した、お笑いの殿堂「浅草演芸ホール」に、是非一度お越しください。


浅草演芸ホール〜公式ページ