東洋興業会長(浅草フランス座演芸場東洋館)松倉久幸さんの浅草六区芸能伝<第16回>「永井荷風(ながいかふう)」
今回のテーマは文豪・永井荷風。荷風先生といえば、東洋興業とは切っても切れない深いご縁の人物。「フランス座」の名付け親という大恩人でもありますから、この連載でも何度かお名前を出させて頂きましたが、あらためていつかじっくり取り上げてみたいと考えていました。
2019年は生誕140周年にして没後60周年のメモリアルイヤー。奇しくも平成最後の日は、ご命日にあたります。まさに絶好の機会とばかり、荷風先生との大切な思い出の数々を、ご紹介したいと思います。
私が初めて荷風先生にお会いしたのは、昭和26年のことです。昭和22年にオープンしたストリップ劇場「ロック座」は、連日満員の大繁盛で猫の手も借りたいほどの忙しさ。ゆくゆくは父・松倉宇七の片腕となるべく郷里から呼び寄せられ、劇場の手伝いをすることになった私は当時まだ15歳、中学校を卒業したばかりの少年でした。
荷風先生がロック座に姿を見せるようになったのは、昭和23年頃からだと聞いています。当時すでに作家として地位を確立していた大先生だったのですが、失礼ながらとてもそのようなお人には見えず、当初は劇場のスタッフにも”なんだ、あのみすぼらしい爺さんは?”と訝しがられていました(笑)。ところがその風貌とは裏腹に大変羽振りが良く、連日踊り子たちに高級な洋菓子などを差し入れてくれるのが、これまた不可解…。
ある時、楽屋を覗いた父は、たまたまそこに居合わせた“みすぼらしい爺さん”を見るなり仰天しました。
「あなた様は…作家の永井荷風先生ではございませんか!」
荷風先生は、戦前から浅草へ足繁く通い、軽劇やレビューを好んで鑑賞していたそうです。昭和13年には親交のあった作曲家・菅原明朗と「葛飾情話」という歌劇を共作して浅草オペラ館で上演し、好評を博したこともありました。無類の演劇好きだった父はこの舞台を観ており、その際にお見かけした荷風先生の顔を記憶していたのです。
この日を境に荷風先生は木戸銭御免、自由にロック座へ出入りする身となりました。毎日のように楽屋に入り浸り、談笑し、踊り子たちと一緒になって入浴までする寛ぎようは、まるで家族さながら(笑)。でもね、だからと言って女の子とおかしな関係になるということは決してないのです。そこは、さすがの品格でしたね。
毎晩舞台がハネると、荷風先生は踊り子たちを食事へ連れ出してくれました。売れっ子ダンサーよりも、まだ田舎から出てきて間もない新人たちを誘うことのほうが、多かったように思います。お気に入りの店は、いずれ劣らぬ浅草の名店、どじょうの「飯田屋」、蕎麦の「尾張屋」、そして洋食の「アリゾナキッチン」。まだまだ食糧事情の良くない時分のことですから、若く貧しい娘たちにとっては、どれほどありがたかったことでしょう。洒落たアリゾナのカレーライスなんぞに胸をときめかす様が、目に浮かぶようです。そんな彼女らの喜ぶ顔を見るのが、孤独な先生にとってもまた、至福の時だったのでしょうね。心根は、とても優しい方だったのです。…もっとも、御馳走する対象は女性限定であり、コメディアンたちには「私は、男に奢る気は一切ないよ!」と言い放つ、ドライな一面も持ち合わせてはいましたけれど(笑)。
代表作「あめりか物語」「ふらんす物語」にあるように、荷風先生は20代半ばから後半の殆どを海外で過ごしています。特に思い入れの強かったフランス時代の話は、私にとっても大変興味深いものでした。いつも楽屋にでんと座っている(笑)荷風先生に時々、
「先生、フランスのお話を聞かせて下さい。」
とお願いすると、嬉しそうに話して下さるんですね、パリで有名な老舗劇場ムーランルージュやクレイジーハウス、リドのことなどを。私は、心を弾ませながら聞き入ったものです。よし、俺もいつか絶対パリに行くぞ!ってね。
実現したのはずいぶん後のことですが、実際にパリの地を踏んだ時は、感慨深い思いでした。あぁ、ついに荷風先生のおっしゃっていた芸術の都へやって来たんだ、と。
ロック座の成功を受けて昭和26年に2軒目の小屋を作る運びとなり、では劇場名をどうしようかという事になった時、父は真っ先に荷風先生に相談を持ち掛けました。すると先生は、何の迷いもなく
「『フランス座』がよいでしょう。」
と、即答されたそうです。
父のこだわる、卑猥ではない美しいストリップショーと、客を呼べる本格的な軽演劇。連日鑑賞してきたからこそ、荷風先生はそのスピリットを心底理解し、世界的なエンターテインメントの聖地であるフランスの地名を、新劇場に授けてくれたのでしょう。何とも、光栄なことです。
フランス座が長い歴史に幕を閉じ(平成11年末に閉館)、東洋館へと生まれ変わった現在でも、わが小屋の正式名称を「浅草フランス座演芸場東洋館」としているのは、こうしたいきさつがあったからなのです。荷風先生から戴いた大切な劇場名は、浅草芸能史における貴重な足跡でもあります。今後もその歴史の重みとともに歩んでゆこうという我々の覚悟が、この名前には刻み込まれているのです。
皆さんの知っている文豪・永井荷風のイメージは、どんなものでしょうか?おそらくは、“仏頂面の変わり者”といった感じでしょうね(笑)。無理もありません、教科書や新聞記事に見る荷風先生の顔は、どれも不愛想な硬い表情ばかりなのですから。けれど、私の中に残る先生の印象は、ちょっと違います。写真は、荷風先生が昭和27年に文化勲章を受けられた際に、父の呼びかけで催された祝賀会でのもの。あの笑わないことで有名だった先生が、嬉しそうな笑みを浮かべている大変貴重な一枚です。
ロック座やフランス座の楽屋でリラックスしていた時に見せたのと同じこんなお顔こそが、あるいは先生の本当の姿ではなかったかと、今でもふと思うことがあるのです。
浅草六区は、まさに小さな歴史の宝庫。未だ発掘されていないこんなこぼれ話が、わんさか転がっております(笑)。そんな宝物を掘り起こし、伝えてゆくことも私の大切な使命、エンターテインメントの未来を照らす一筋の光になると信じて、ますます頑張ってゆこうと思います。
松倉久幸(浅草演芸ホール)
(口述筆記:高橋まい子)
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