「ナイツ」「ロケット団」「宮田陽・昇」・・・浅草伝統の笑いを継承する実力者たち<第14回>浅草六区芸能伝|月刊浅草ウェブ

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東洋興業会長(浅草フランス座演芸場東洋館)松倉久幸さんの浅草六区芸能伝<第14回>「ナイツ」「ロケット団」「宮田陽・昇(みやたよう・しょう)」

誰にとっても、どんな時代も、笑いは大切。おかげさまで浅草フランス座演芸場東洋館は、今日もお客さまの賑やかな笑い声に包まれています。

時折、“ビートたけしが、最後の浅草芸人だ”という声を耳にしまが、本当にそうなのでしょうか?…いえいえ、そんなことはありません。今日も東洋館では、この場所から羽ばたいて行った偉大な先輩達に憧れる若者が日夜修行に励み、浅草喜劇人のスピリットをしっかりと受け継いだ底力のある芸人達が、順調に育っているのですから。
今回は、そんな中から頭角を現し始めた将来有望な面々のことや、かつてフランス座で“有望な芸人を言い当てる名人”と囁かれていた風変りな名物オジサンの面白いエピソードなど、新旧の話題を取り混ぜながら、お話ししてゆきたいと思います。

フランス座時代、当初は添え物的だった幕間のコントも、渥美清をはじめ芸達者なコメディアンらがしのぎを削るようになると、ストリップショーよりもむしろコント目当てというお客さんが徐々に増え始め、人気を博すようになりました。しかし時代が進むにつれ、ストリップ劇場そのものへの社会の風当たりが強くなり、自ずとコメディアンらの立ち位置も危うくなってゆきます(もっとも、浅草芸人の貧乏暮らしは今に始まったことではありませんが(笑))。たけしらが修行していた昭和40年代末から50年代にもなると、芸人たちはコント芝居の役者を続けていても先が見えない、という焦燥感から漫才に活路を見出し、息の合うもの同士コンビを組んではテレビ業界への進出を目指すようになったのです。これも時代の流れ、致し方のないことでした。
時世に揉まれながらも2度の休館を乗り越え、なんとか踏ん張っていたフランス座でしたが、ついに決断の時を迎え、現在の色物専用劇場・東洋館に転身したのは、平成12年のことです。
 
色物とは、落語、講談を除く演芸のこと。漫談、コント、マジック、曲芸…と実にバラエティに富んでいますが、中でも漫才は、やはり花形と言えるでしょう。昭和50年代半ばの漫才ブームが去った後、一時は下火となったものの、近年になってまたじわじわと人気が再燃しつつあり、漫才師を志して東洋館の門を叩く若者も、後を絶ちません。

そんな中から頭一つ抜きん出てきたのが、「ナイツ」(塙宣之土屋伸之)。
いまさら説明の必要もないくらい、もはや“お茶の間の顔”ですね。内海桂子師匠に入門し、東洋館で初舞台を踏んだのが2002年。大変な勉強家で、数多くの舞台をこなしつつ着実に腕を磨き、正統派でありながら独自の技も満載の時事ネ
タでブレイクを果たしました。塙は漫才協会の副会長、土屋は常務理事でもあります。必ずや未来のお笑い界をしょって立つ存在となってくれることでしょう。

ロケット団」(三浦昌朗倉本剛)も、安定した実力の人気者。
師匠はおぼん・こぼんで、元サラリーマン&劇団員という、変わった経歴の持ち主でもあります。こちらも時事ネタを得意としていますが、ナイツとはまた一味
違った個性で、とにかく楽しい芸風ですね。台東区内のイベント等にも数多く出演し、浅草っ子たちに愛されています。

宮田陽・昇」(宮田陽宮田昇)もまた、非常に力のあるコンビ。師匠は、江戸売り声の宮田章司。実は抜群の記憶力を持つ陽が、昇の質問返しに「わかんねえんだよ」とボケる掛け合いが可笑しく、絶妙です。ネタも新鮮で、確かな実力を感じさせますね。陽は、ナイツ塙とともに、漫才協会の副会長を務めています。

目下のところ、この3組が私のイチ押し、東洋館のエースといったところでしょうか。他には、めきめきと実力をつけてきた「母心」(嶋川武秀関あつし)
や、異色のクォーター姉妹コンビ「ニックス」(相沢江美相沢友美)なども、注目株ですね。

よく、「ブレイクする芸人は、はじめから光るものを持っているんですか?」という質問を受けますが、意外にも、そういうケースは稀なんですよ。むしろ最初はピンと来なかった者が、先輩や他の芸人達と触れ合いながら段々と磨かれて、あるときお客さんを、どっと沸かせるようになる瞬間がある。その湧き方で、あ、これは伸びてくるな、とわかるんですね。
いずれにしても、売れっ子になる芸人は、例外なく勉強熱心です。隅々まで新聞を読んだり、雑誌に目を通したり、人間を観察したり、日々の努力を怠りません。特に漫才の場合は常に鮮度の高いネタが要求されるので、生みの苦しみも相当なものでしょう。ブレイク前夜は皆、寝ずの思いをしているはずです。

そういえば昔、フランス座の客席に、ブレイクしそうなコメディアンをぴたりと言い当てる鋭い勘を持った、不思議な男が出入りしていました。
今で言えばいわゆるホームレスなのですが、「キヨシ」と呼ばれていたその男は、劇場の掃除を買って出たり、踊り子達の荷物を運んだりしてお駄賃を貰い、ちゃんと木戸銭を払って入場していたのですから、一応、れっきとしたお客さんです(笑)。
で、このキヨシ、気に入ったコメディアンが舞台に上がると「いよッ!〇〇!」などと声をかけては芝居を盛り上げてくれるのですが、〈彼に目を付けられた芸人は、必ず売れる〉というジンクスがあり、この界隈ではちょっとした名物オジサンだったのです。昔から浅草中のストリップ劇場や芝居小屋を廻っていたようなので、きっと目が肥えていたんでしょうね。
そんな彼が特にご執心だったのは、渥美清です。渥美がフランス座に入った当初から活躍を断言し、いつも客席から「清!日本一!」と(自分も同じ“きよし”ですが(笑))と熱い声援を送っていましたっけ。「渥美清は必ず、日本一の役者になるぞ。」と言っていましたが、実際にその予言はズバリ的中してしまったのですから、ものすごい眼力ですよね。

…キヨシはその後、どうなったのでしょう。ずいぶん長いこと親しまれていましたが、いつの間にやら、風のように姿を消してしまいました。違う街へ移っていったのか、それとも人知れず、どこかで果ててしまったのか…。今となっては知る術もありませんが、そんな男がいたことも、忘れないでいてあげたいな…ふと、そんなことを思いました。
時代をこえて、また、この浅草六区から「日本一!」の芸人が育ったら、キヨシは、どんなに喜ぶでしょうね。

才能、努力、人柄、時の運…売れっ子芸人が誕生するための要素は色々ありますが、たとえ一時売れたとしても、力のない者は瞬く間に消え去ってしまいます。
渥美清三波伸介東八郎萩本欽一ビートたけし…浅草で修業を積んだ芸人の多くが、スターに上り詰めた後も息の長い活躍をしてこれたのは、芸の技術のみならず人間としての底力というものを、この街で培ったからだと思うのです。
古くから芝居小屋や映画館が立ち並ぶ“芸能の聖地”の空気感を肌で感じ、偉大な先輩芸人たちの影を追いかけ、食うや食わずの暮らしに耐えながら時には人に揉まれ、時には救いの手を差し述べられ…そうやって、ちょっとやそっとのことではへこたれない人間力を身につけ、成功を手にしていったのです。

これから世に出てゆく未来の大スターたちにも、どうかこの街に育ててもらったことを忘れず、浅草芸人としての誇りを胸に、思い切り羽ばたいて欲しいものです…!

松倉久幸(浅草演芸ホール)

(口述筆記:高橋まい子)

※掲載写真の無断使用を固く禁じます。

東洋館〜浅草フランス座劇場〜

歴史あるフランス座(ふらんすざ)の名前でも有名な東洋館。正式名称は「浅草フランス座演芸場東洋館」です。
現在はいろもの(漫才、漫談など)を中心とした演芸場。建物を同じくする姉妹館・浅草演芸ホール(落語中心の寄席)とともに、歴史ある浅草お笑い文化の一角を担う存在と自負しています。「浅草フランス座」以来の伝統を受け継ぎつつ、新しい「お笑いの発信基地」でもある当劇場へのご来場を心よりお待ち申し上げております。
浅草観光の際には是非ご利用ください。


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