「そういえば、昔うちの実家に刀剣がありました」と伝えたら、「守り刀ですね」という言葉が返ってきた。
「守り刀」という言葉を初めて聞いた。
古くから日本では、刀には強い生命力が宿ると考えられてきた。刀は家を守り、人は刀から「生きる力」をもらうのだという。
宮本武蔵、佐々木小次郎、柳生十兵衛、坂本龍馬といった天下の剣豪たちや、戦で活躍する武器としてのイメージが強い刀だが、実は日本史を振り返ると日本刀が武器として使われた時代はほとんどなかった。
戦国時代以前の戦傷記録を見ると86.6%が弓矢によるものであった。戦国時代から江戸時代の寛永14年にかけての記録では、41.3%が弓矢、19.6%が鉄砲傷、刀傷はわずか3.8%に過ぎない。刀は、間違いなく武器として作られてきたものであるが、同時に名だたる武将たちが名刀を求め、刀を眺めることで心を清め鎮め、奮い立たせてきた。
日本刀は単なる武器にとどまらず、精神的支柱であったし、美術品であったのである。
◉鎌倉時代至上主義
日本は、昔から豊富な砂鉄に恵まれ、良質な和鉄を作ることができた。
日本刀とは、そんな在来のタタラ製鉄で作られた和鉄を使用して製作された刀のことを指す。海外で洋鉄などの和鉄以外を使って作られた「日本刀のようなもの」が売られている場合があるが、それは和鉄を使っていないので、日本刀とは呼ばない。
2023年(令和5年)の時点で、日本の国宝に指定されている日本刀は、122本ある。
この数は他のジャンルの品と比較してもかなり多い。そして、国宝に指定されている日本刀のほとんどが鎌倉時代に作られたものだという。なぜ、鎌倉時代に作られた日本刀が「最も良い」とされるのかは、単に室町幕府に仕えた本阿弥家がかつて日本刀の価値を決め、「これは名品だ」と価値付けしたものが「名品」となり、その価値観が現代にも続いているからだという。
刀を判断する要素は、全体の形(反り具合や幅や厚み)、刃文(刃の部分に手元から切先まで白く帯状に見えるもの)、地肌(織返し鍛錬の末に現れる刀の肌模様)、茎(柄に収まる部分)などである。刀匠や刀の専門家が見れば、いつ誰が作った刀なのかが分かるのだという。
日本刀は、平安時代から安土桃山時代の刀を「古刀」、江戸時代の刀を「新刀」、江戸時代後期の刀を「新々刀」、近代以降に製作された刀を「現代刀」と呼ぶ。明治以後の刀匠たちは「鎌倉時代の刀を再現すること」を目指してきた。
前置きが長くなったが、今回ご紹介するのは、平成8年に遂に鎌倉時代の名刀再現を実現“させてしまった”刀匠・松田次泰さんである。
◉生い立ち
松田刀匠は、北海道に生まれた。小さい頃から絵を描くのがとても上手な少年だった。
小学校の先生からは「お前、絵描きになったらどうだ」と言われ、高校時代は美術の先生が追いかけてきて絵を見にくるほど上手だった。ゴッホやセザンヌに憧れ、東京芸大へ進学しヨーロッパに留学に行きたかったが、残念ながらその夢は叶わなかった。
絵画をやるなら本場に行かなくてはならないと考えていた松田さんは、日本のものだったら日本が本場だから留学する必要がない。自分にもチャンスがあると思い至った。
そして、日本美術の中でも、日本刀の世界は「古典=鎌倉時代の刀」の製法は未だ分からない。人間国宝の刀匠であっても未到の境地であるから、可能性はあると感じた。
刀匠になるには誰かに弟子入りをしなくてはならないから、ひとまず人間国宝の刀匠の一門に弟子入りした。24歳の時だった。刀匠の下積みは長い。
まず作刀承認許可を得るまでに6年間かかった。毎朝5時から掃除や火おこしから始まる規則正しい生活習慣は、今も体に染み付いているという。松田さんは、職人気質で、思ってもいないおべんちゃらは言えない性格だ。
師匠が作った刀を見ても「鎌倉古刀」とはだいぶ違うので、納得していない表情をしてしまう。そういうこともあって気に入られなかったのかもしれないが、入門して7年目で予定よりも早く追い出され、独り立ちをすることになった。
次号、他の刀匠たちと同様に鎌倉を目指して鍛錬を重ねるが、遂に松田刀匠が鎌倉時代の日本刀の再現に成功する!しかしそれは転落の兆しでもあった。これからどこへ向かうのか。後編をお楽しみに。