《センベツとゲンメツ》
厚さ五センチ、長さ三十センチほどもある、いまでいうとワラジ・カツだが、そういうバケモノみたいなトンカツを売り物のレストランで、そのオバケ・カツを二人前平らげ、ミルクコーヒーを三杯飲んだところへ、
「アレッ！！おめえも来てたのか！」
偶然にも、工場の親方が入ってきた。その日は給料日だったので、帰りに一パイ飲んだらしく、かなり酔っていた。
「ずいぶん、ゴウセイじゃねぇか」
「いえ、じつは…」これこれ、しかじか、日ごろご講義いただいている〝筆おろし〟とやらに出かけようと思って…と、恥かしそうに小声で話す。—と親方は、
「えらいッ！」
ボクの背中をポカンと叩き、
「じゃァ、おめえの〝筆おろし〟を祝って、オレがカツをおごろう」
なにが「えらい」のだか「祝って」だかわからないが、オバケ・カツがバケて出そうなほど食ったので、「もう、けっこうです」と遠慮すると、「じゃァ、ビールでも飲め」とあつらえ、
「ダメだぞ！カツの二枚ぐらいで、ビールも飲めねェなんて意気地なしじゃ、いい職人になれねえぞゥ。オレなンぞァ〝筆おろし〟の前にゃカツを十枚食って、ビールを一ダースも飲んでよう、ションベンを十五回もしたもンだ」
つまらんことを自慢しながら、ムリにビールを飲ませ、さらにオバケ・カツをあつらえて食わせ、自分はこれから川向こうへ(玉の井—私娼街)行くといい、
「クタビレちゃうと、あしたの仕事にさしつかえるから、こういう精力剤を用意してあるンだ、おめえも飲んどけ」
ポケットから赤マムシの黒焼き(粉末)を取り出して、イヤがるボクにムリに飲ませ、
「えれえ、えれえ…！じゃァおめえの〝筆おろし〟を祝って…」
「も、もうカツはたくさんです」
「早まるな。そうはオゴれねえや。ひとつ、 おめえの〝筆おろし〟を祝って… 」
よく祝いたがる男だ。
「センベツをやろう。とっときな」
辞退するのをムリに、一円くれた。なにしろ、一円で〝お時間〟(チョンノマ。ショート)遊びができた時代だ。それにしても〝筆おろし〟のセンベツというのは、いまだにどういうわけか、サッパリわからない。
—親方と別れて吉原へきたが、コソコソと隠れるように裏通りばかり歩き、みころしながら、一番安そうな三、四流どころの女郎屋へようやく足を踏み入れた。
また、その夜は、よほど酔っ払いに縁のある日らしく、ぼくの敵娼(あいかた)になった小豆(アズキではなく、コマメ)という、名前は可愛らしいが、ゆうに六十キロはあるとみえる大女—小マメどころか大マメのデブである。これが、よその座敷で飲まされたとみえ、したたか酔っぱらって、ボクの部屋へくるなり、グウスカ眠ってしまった。何時間たっても、いくらゆすぶっても、目を醒まさない。
さてそのころになると、ただでさえ〝余っている〟ニキビ時代、加えてオバケ・カツ三枚、ミルク・コーヒー三杯、マムシの精力剤…とくると、カッカとしてモンモンとして…眠れようはずはない。哀願するように、
「起きてくださいよゥ…」と、大マメ女郎をゆすぶるのだが、いっこうに効き目なし。
ようやく、夜がしらじらと明けるころ、
「ションベンしてくるからネ」
女は目を醒まして便所へ行き、それから…ようやく目的を達したのだが、なにしろ女は半分眠っているのだから、おもしろくないことおびただしい。欲求不満の夜が明けて。(ああツマンネエ、ツマンネエ…)と、心でつぶやきながら店を出て、歩きながらボクはひどく不安になったり、ゲンメツを感じたりした。
神秘なるものへの期待は完全に裏切られ、失望と腹立たしさばかりが残った…哀れな、ヘンな〝筆おろし〟だったが、完全に目的を達しなかったのだから、ボクの初陣は〝筆おろし〟ではなく、いうなれば〝半おろし〟であろう。—申しおくれたが、その大マメ女郎はその部分も大マメで、しかも、いうところの〝お皿〟であったことを付け加えておく。
〈完〉
(昭和45年7月号掲載)
