新国劇直伝! 日本時代劇研究所<第3回>懐かしの浅草芸能歩き|月刊浅草ウェブ

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日本時代劇研究所

「新国劇では、斬られ役という言葉を使いませんでした。カカリ(掛かり)といって、ただ斬られるだけではない。強い侍、弱い侍、博徒など役柄と場面に応じた刀の持ち方、振り方、鞘への納め方があって、それこそ腕の立つ役者が選ばれました。同じ正眼の構えでも、主役ならそれに相応しい形がある。そうした殺陣(タテ)の基本を伝えたいんです」と語るのは、日本時代劇研究所の滝洸一郎所長。滝さんはリアルな立ち廻りと「殺陣」の表記を創案し、男性的かつ詩情あふれる芝居で一時代を築いた劇団新国劇の出身だ。
地下鉄銀座線を田原町駅で下車、国際通りから少し入った道を蔵前方向へ。落語界ゆかりの「はなし塚」がある本法寺(本稿で取材予定)を過ぎると、やがて剣道(剣術というべきか)の道場のような同研究所の看板が見えてくる。
坪内逍遥の教えを受け、演劇運動に身を投じた早稲田大学出身の澤田正二郎が新しい「国の劇」を目指し、新国劇を旗揚げしたのが1917(大正6)年。澤田座長亡き後は、島田正吾辰巳柳太郎を中心に1987(昭和62)年、70年に及ぶ歴史の幕を閉じるまで数々の名舞台と俳優を世に送り出した。
国定忠治が山形屋一家の闇討ちを電光石火で斬り伏せる、月形半平太と新撰組が朧月夜の三条磧で死闘を繰り広げる。『大菩薩峠』では、机龍之助が甲源一刀流の門弟と息詰まる果し合い……等々、今も語り草の名作と殺陣の数々。初期の殺陣師として芝居の主人公にもなった市川段平が有名だが、後年は座員(俳優)が担当したという。滝さんが在団中に師事した宮本曠二朗(浅草出身)も、口跡のきれいな俳優と同時に殺陣の名手として知られた。

「千鳥」の稽古。シン(主役、斬る側)を勤める滝洸一郎所長(写真右)に次々と斬りかかる。

新国劇解散後の滝さんは浅香光代劇団の文芸部、俳優部に所属するなど殺陣師、脚本家としても活躍してきた。浅香さんは2012(平成24)年10月7日、同研究所設立以来の名誉顧問だ。
「設立当時は時代劇が減少傾向にあり、基礎を学ぶ必要を強く感じました。江戸情緒が残る町で、と場所を探しましたが浅香先生ともご縁の深い浅草に拠点ができて、本当に良かったと思います」(滝さん)。殺陣のほか、時代劇の所作を重視してカリキュラムに取り入れた日本舞踊を指導するのは、やはり新国劇出身の花柳真寿輔副所長。現在、俳優として殺陣を磨く人をはじめ、体験して楽しむ一般参加者、さらに日本の伝統文化に強い関心を持つロシア出身女性のマリアさんと、多彩な顔ぶれが通う。取材に訪れた日も素振り、居合、千鳥(多人数が次々と一人に斬りかかる)と、清冽な緊張感のなかで稽古が行われていた。
「今後は〝子どもチャンバラ時代劇教室〟も考えています。基礎を身につければ、自由に発想できるのが時代劇。それに、映画やテレビを見るのがより楽しくなります」(同)。研究所の壁には司馬遷著「史記」を出典に、伝教大師・最澄が説いた言葉⽥照千里守一隅⽦が掲げられていた。一隅(いちぐう)を守り、千里を照らす。新国劇の殺陣を継承し、時代劇の魅力を広く伝える心意気である。

(写真/文:袴田京二)

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