猿若三座〈第5回〉絹川正巳|月刊浅草ウェブ

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安政6年、市村座での『十六夜清心(いざよいせいしん)』の十六夜と清心の道行に用いられた清元『梅柳中宵月(うめやなぎなかもよいづき)』で好評を博してから、黙阿弥は四世清元延寿太夫の美声に惚れ込んで提携がはじまり、明治はじめの激動期にも三座の出語りが年に4回から5回はあり、世話狂言の浄瑠璃は総て清元というほど数多く作り、他の浄瑠璃にくらべて優遇されていた。

それが同じ月に、中村座、守田座に哥澤芝金がかけもちで出演したということは清元師匠連にとって寝耳に水の驚きであった。

初代哥澤芝金は、旧幕の御家人柴田金三郎の三男、金吉で学問も教養もある上に、唄・三味線の名手で、偽作者の仮名書垣魯文や黙阿弥、竹柴其水とも交遊があり、うた澤節のよさを広く世間の人々に知らせるためには芝居と接近することが一番と考えたようだ。

うた澤に歌澤と哥澤の二派がある。これは、うた澤連の代表笹丸没後、同好の士の一人であった虎右衛門が二世家元となったので、芝田金吉が文久2年に別派を立て、歌澤の字の篇だけをとり「哥澤」と名のり、また、道芝の踏まれても踏まれてもなお芽を出すという縁起をとって、柴を芝と改め、哥澤芝金と称した。

以後、うた澤は、歌澤寅右衛門の寅派、哥澤芝金の芝派にわかれ、歌・哥を使い分けて流行した。

両派の歌い方の違いは、総じて寅派が節が細かく、息を長く歌うのに対して、柴派はさらりとして歌全体の風味を出すことに重きを置いたという。

うた澤は当時の端唄の長所を集め、一中節風に渋く品よくと、地味で粋にならないように、発声は抑制的で中音域以下を重要視し拍子を微妙にはずしたり、調子の低い、テンポも一般におそいという、本来の味から考えて、はじめのうちは珍しいから人気を呼んだ劇場出演も、劇場音楽としては長続きするものではなく、用いられても、ごく短い時間の隣りから端唄が聞こえてくるといった趣向ぐらいにとどまったようだ。

さて、うた澤から話が横道にそれたが、新装なった新富町の守田座第1回興行は大評判で大入りをつづけ、経済的には決して楽ではなかったが大成功であった。

そして、翌年の明治6年、七世河原崎権之助は河原崎座復興の許可を得て芝新堀一番地に新築・同7年7月10日に開場している。

河原崎座の名はないが、たしかな記録がないので創設年代ははっきりしないが享保20年(1735年)から幕末までの約60年間、守田座の控櫓として興行していたが安政2年大地震のため焼失、廃座となった。

それを劇場経営で辣腕を振った六世権之助が八方手をつくして再興を期したが現実をみずに強盗に殺害されるという悲運な死をとげたので、七世権之助が養父の遺志を継いで再三出願し、めでたく再興をさせたのだ。

開場に先立って権之助の座元名義を義弟に譲り、みずからは実家の市川家に戻って、二十数年来絶えていた團十郎の名跡を襲名して杮落しの舞台を踏むことになる。

出演者は、座頭に團十郎、立女方は国太郎、書出しが左團次、庵が実弟の海老蔵、ほかに新車、訥弁などで、團十郎襲名というので引幕が80張りもきて42日間打ち通した。

『一谷嫩軍記』七世松本幸四郎・沢村宗之助

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