徳川家康を大阪方に、上田の開城を江戸の開域になぞらえ、殊に序幕の上田開城の場の百姓と佐々木高綱との哀別の場はこの時代の士民に多大の感動を与えたものだという。
その2幕目の第2場、權之助(七代目河原崎權之助、後の九世市川團十郎)が北条時政(家康)に扮しての幕切れで、時政がだまってうなづくと時計が鳴りだして、それを合図に木を打たず、スウッと幕を引いたのだ。
「權之助、時政扮して仲蔵の古都が〝大阪表へ一つの難題〟と云うを押え〝ウム〟ときょくろくを前へ置き、其上へ右の手をかけ、古都と扉のかげにて囁き、両人無言でうなづくを下座の時計の音にて幕を引きたり、是れ優が木無しの幕を引きたる始めなり」
と「続々歌舞伎年代記」にある。この時の役名は、やはり真田幸村は佐々木四郎高綱、徳川家康は北条時政、本多は古都新左衛門であった。
その後もいくつかの演目で、「析なしの幕」を応用しているが、明治17年4月「二代源氏誉身換(にだいげんじほまれのみがわり)」、藤原の仲光の時には、
・・・何もせず側の者に狂言を預けトゞ満仲より一トさし舞へと云はれ仲光よろしく舞ふ事あり途中にて木を入れず舞ながら幕を引かせる、見物は煙に巻かれ手を打ち悦ぶとは扨々人を馬鹿にした幕切れなれど、是を不思議不思議と皆がほめる迄に売込んだ團州先生も不思議なる哉・・・
と「続々歌舞伎年代記」にあり、とにかくほめられている。
そして、權之助は明治5年も続いて守田座に籍を置いていたが、同年2月、東京府庁は猿若三座の座元と、三人の作者桜田治助、瀬川如皐、河竹黙阿弥を呼び出し、
ー此頃、貴人及ビ外国人モ追々見物ニ相成候ニ付テハ、淫奔(イタツラゴト)ノ謀トナリ、親子相対シテ見ルニ忍ビザル等ノ事ヲ禁ジ、全ク教ヘノ一端トモ成ルベキスヂヲ取仕クミ可申ヤウー
とお諭(さとし)の通達があった。さらに同年4月、守田勘彌、河竹黙阿弥、桜田治助が再び東京第一大区役所に呼出され
ー抑(ソモソモ)、演劇ノ儀ハ勧懲ヲ旨トナスベキハ勿論ナガラ、爾後全ク狂言綺語と云ヘル旨ヲ廃スベシ。譬バ羽柴秀吉ヲ真柴久吉ト・・・ー
菊五郎は、新しい世の中を舞台化した「ざんぎり狂言」を、權之助は、父の七世團十郎にゆかりのある役々に取り組み、九世團十郎への夢をかけはじめ、團・菊の二人は明治期を代表する名優となるが、訥升だけが次第に取残されていったようだ。
二世沢村訥升(のちの四世助高屋高助・1838~86)は、五世沢村宗十郎の長男で、美貌で早熟の天才、三世沢村田之助は弟である。父の芸風をついで和事、実事を得意とし、また女方をも兼ねる調法な役者であった。人品はよかったが口跡(こうせき)が粘ったのと、芸に腹がないと云はれた。当たり役は「先代萩」の政岡、「本朝廿四季」の勝頼、「勧進帳」の富樫などで、はじめは團十郎より人気があったが、次第に追い込まれ、ついに中央劇壇から落伍してしまう。
しかし、明治10年に團十郎が名古屋の橘座で「勧進帳」を上演するとき、相手の富樫役者がいなかったので、ちょうど上方にいる訥升を読んで勤めさしたが、〝これまでの富樫のなかで一番よかった〟と後年までも團十郎は褒めていたそうだ。それによっても、彼が決してまずい役者ではなかったということは云える。そして、この期には團・菊より先輩ではあったが早世したためその才能を十分に伸ばすことのできなかった、五世大谷友右衛門(1833~73)がいた。四世友右衛門の次男で、父と共に旅芝居の放浪が多く、上方にながく留まり、その間に修業を積んでいる。
9年ぶりに江戸に帰り、慶応元年8月、守田座にて、「奥州安達原」に袖萩と貞任、「鎌倉三代記」では芝翫の佐々木高綱に若武者三浦之助を演じ、その後、「神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)」の娘お舟、「敵討天下茶屋聚(かたきうちてんかぢゃやむら)」の安達元右衛門、「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」で熊谷の妻相模、「義経千本桜」で平知盛、さらに、芝翫・訥升と「三人石橋」などを勤め、明治に入ってからは三座を掛持するような人気役者となっている。
肥満型ではあったが、目鼻立ちが立派で容姿にすぐれ、声調にもめぐまれ、色事と敵役も女方も兼ね「安達原」の貞任・袖萩は一代の当り役と賞された。また法界坊も当り役だったらしいが、概して世話物よりも時代物が得意だった。團十郎未亡人の懐旧談によると、友右衛門の舞台を見て、「良人の團十郎が何時になったらアレくらいになれるだろう」、と思ったことがあるという。
こういう状況下、權之助が初座頭となった市村座の上演作品などをあげてみよう。
〇「蝶三升扇加賀製(ちょうとみますおうぎのはがぼね)」は、加賀騒動の新作、權之助は家老蟹谷雅楽之助と加賀の大領、友右衛門は高橋瀬左衛門と鳥井又助。
〇「勧進帳」は、權之助の辦慶に、友右衛門の富樫。
〇「隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)」、通称「法界坊」は、友右衛門当り役の堕落僧法界坊に、權之助は道具屋甚三と押戻し、など。
そして、同年8月、「新薄雪物語」に、来国俊と園部兵衛。それに「新歌舞伎十八番の中、海老蔵遺稿の正本」と割書したる
〇「桃山譚(ももやまものがたり)」、通称「地震加藤」を上演した。
これが權之助の「地震加藤」の初演である。この作品は大好評、大当りなので11月にも続演している。
太閤秀吉から勘気を蒙り、閉門を仰せつけられた加藤清正が、大地震が起こるや、太閤の身辺を気遣うのあまり、閉門の身も忘れて桃山御殿に駆付け、幸蔵主(こうぞうす)を相手に身の不遇を述べる感懐には男を泣かせるものがあり、活歴劇の先駆をなした。