猿若三座〈第2回〉絹川正巳|月刊浅草ウェブ

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勘彌は、この時局物の西南戦争を当込んで、これを舞台に上せようと黙阿弥と相談をしていた。しかし、注意深い黙阿弥は、今までの際物と違い、目前の出来ごとだから事実本位に劇化しなければと慎重に考え、官憲をはばかって、なかなか筆をとらなかった。当時は、実際に事変の真相や、正確な情報を得ることは不可能であった。

そこで黙阿弥は、まず薩摩の事情に通じようと、要路の大官連に接近すべく、人を介して策を尽くして、参議院山縣有朋、陸軍少将大山巌、薩摩の伊集院兼常、などと交遊することとなり、また、西南戦争に従軍した日日新聞社長兼主筆の福地源一郎(桜痴)らに近づき、東奔西走して関係者から材料を収集し、山縣有朋から西郷に送った勧降状の写しまで手に入れたりして黙阿弥にそれらの資料を托して励ましたので、黙阿弥もやっと安心し、喜んで脚本を書きはじめた。

そして、その宣伝のために、翌年1月興行の中幕に、無名の不思議な「だんまり」を加え、口上看板に

<第1番目と2番目との間へ、2月狂言の発端1幕、だんまりに取り組をご覧に入れ奉り候。何卒御見物の上、役者どもの出立(いでたち)にて、誰は誰であろうと、新年のお慰みにご判じ下され宣敷願上候>

と、だたそれだけで、外題、役割の発表もしなかった。

この「だんまり」の手法は、薩摩絣の着物に兵児帯姿の團十郎が、生きている犬を曳いて藪だたみからニューと現れ、洋服姿の菊五郎と、西郷星の掛合せりふがあり、左右から宗十郎と左團次が軍服姿で出て、だんまり模様になるという。観客は呆気にとられていたが、それが「西郷だんまり」というものであった。この興行は、名優のほかの役々もこうひょうであったが、結局呼びものは「西郷のだんまり」1幕であった。

この問題の作品は「西南雲晴朝東風(おきげのくもはらうあさごち)」、通称「西南戦争」、7幕19場の通し狂言だ。昔から狂言題名は「振りがな」がなければ読めないものばかりだ。この題名もそのひとつだが、検閲係の役人から、「いかにもよくつけた目出たい題だ」、と激賞されている。黙阿弥も、いつも名題には苦しんで、思う通りにはならないが、これだけは会心のものだったと語ったそうである。

ー征韓論に敗れて身を退いた西条高盛(團十郎)は、岸野年明(左團次)、蓑原国元(菊五郎)らに擁せられて徒党が結ばれ、三太郎峠に集結、熊本鎮台を攻も囲むが落ちない。田原坂で蓑原国元の討死から味方の勇気が次第にうせ、山縣有朋の勘降状をみて一大決戦の後一同決死の覚悟をするまでを主筋に、順逆の理に固執する硬骨の士・沢元彦右衛門(宗十郎)が、西条に加担しなかった為に恨みをかって捕らえられ、鉄砲腹をする件、岸野を慕って九州に下った妾お秋(半四郎)、西条と知らず戦争の不可を解く百姓作蔵(左團次)のエピソードなどが添えられているー

時局物である戦争の現代劇を写実に見せようとするのは大変で、軍服、洋刀(サーベル)、鉄砲な一挺でも間に合はない時代に、勘彌が「お入用お構いなし」にドンドンの注文なので係の連中は面喰っていた。

菊五郎の蓑原が田原坂で落馬し悲壮な討死をするところの趣向が極めて巧妙、芝居とは思えぬほど実感的と好評。團十郎の西条は、團十郎の南洲か、南洲の團十郎かといわれる程の評判となった。

仮名垣魯分は西条を激賞、仮名読新聞に西郷の「南洲」の号に思いを寄せ、洒落て團十郎を「團州」と書いた。團十郎もこれは面白いと、以後みずから團州の号を使うようになった。

この芝居は、古今無類の大入りが続き、日延べして80日間のロングランとなった。座方は、毎日観客の申し込みが多いので5日前から座席券を売り始めた。これが東京における「前売り」の最初のものであろうという。

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