昨秋九月東京落語家全員は國家新体制に即應し五十三種の落語禁演を自粛協定して職域奉公の實を舉げたり…
地下鉄銀座線田原町駅近く、長瀧山本法寺(台東区寿2-9-7)の境内に立つ「はなし塚」裏面の碑文である。
上野からこの界隈を含めて浅草まではもともと寺院が多く、江戸中期に起きた明暦の大火(1657年)後、幕府の政策により神田、湯島、本郷などから寺が移転。仏具を扱う店も軒を連ねて浅草新寺町の通称が生まれた。
本法寺も太田道灌が築いた江戸城紅葉山に創建、八丁堀を経て大火後に浅草へ移った。境内には狐を救った伝説を持つ熊谷安左衛門が勧請した熊谷稲荷があり、福徳と財物をもたらす白狐が祀られていることが評判となって芸界、花柳界からも信仰を集めている。
昭和16年10月、太平洋戦争開戦間近の国内は戦時体制に突入していた。政府は各芸能団体へ厳しく自粛を要請、これを受けた落語界は演目を甲乙丙丁に分類し、丁に属する53種を「時局に相応しくない」として本法寺境内に「はなし塚」を建立、台本を納め禁演落語とした。命令に従ったのではなく、先手を打つ自主規制だった。石碑には講談落語協會落語部員一同、東京色物演藝場席主一同、小咄を作る會々員一同とある。題字の揮毫は、もと新聞記者で文芸作家の長井(鶯亭)金升。
禁演の選定基準は遊里、酒、妾、間男を扱ったものなど。廓噺や、里心がつくからと人情噺『子別れ』等の自粛は仕方のないことかもしれない。だが『品川心中』は遊里が舞台とはいえ恋愛物語ではなく、誰も死なない(与太郎は厠へ落ちるが)。『蛙茶番』は褌を締め忘れて着物の裾をまくるのが不謹慎なのか、それとも題材の芝居自体が……などと選定に首を傾げるのも、今が平和な時代だからか。演目が減少した一方で、柳家金語楼(樓)の「落語家の兵隊」のように新作の発表が進んだ。
終戦後、早々と落語会が再開されたが昭和22年5月、占領軍の検閲により27演目が塚へ逆戻りとなる。仇討、忠誠はいけないと歌舞伎の『忠臣蔵』『勧進帳』等が上演できなかったのと同様だが、これは自然消滅の形となり後年に復活法要が行われた。
お寺の外に出ると、正面の壁に落語と各分野の芸人さんの名前、演芸場や関連団体、放送局の社名が刻まれて独特の雰囲気だ。古今亭志ん生、桂文楽、三遊亭圓生、林家正蔵、三笑亭可楽……。桂三木助の名を見つけて「帰って『芝浜』を聴こうか」など、演目が浮かぶ。漫談の牧野周一の名もあり、あの大きめの耳を思い出した(「街を歩いていますとね、いろんなことがあるんですヨ」が、よく聴いた語り出しだった)。
冒頭に引用した碑文は、さらに「今是を記念し併せて葬られたる名作を弔ひ尚古今小咄等過去文芸を供養する為……」と続く。〝名作〟の二文字には復活を誓う名人上手たちの思いと、反骨精神が込められていたのではないか。戦災を乗り越えた石碑を見て、ふとそんなことを考えた。
(写真/文:袴田京二)
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