「三遊亭圓生」「古今亭志ん生」伝説の名人が活躍した時代の波に乗り、大成功!浅草演芸ホール誕生秘話<第9回>浅草六区芸能伝|月刊浅草ウェブ

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◆寄席発祥の地・台東区

ところで皆さん、この台東区が寄席発祥の地であることを、ご存知でしょうか?

江戸時代後期、日本橋に京屋又五郎という櫛職人がおりました。又五郎さん、男のくせに大のお喋りで、面白い話をしては人を笑わせるのが大好き、好きが高じてついには櫛職人を辞め、噺家に転身してしまいました(笑)。
“山椒は小粒でひりりと辛い”に由来し、付けた名前が『山生亭花楽』(後に、三笑亭可楽と改名)。今日まで九代続く、名跡の誕生です。この人物こそ職業落語家第一号であり、彼が初めてお客さんから木戸銭を頂戴するというスタイルで寄席を開いた場所が、現在の台東区稲荷町にある下谷神社だったという記録が残っているのです。
また、初代可楽の墓は、奥浅草の潮江院にあり、今でも毎年4月の第一土曜日には、三笑亭一門によって「可楽まつり」が行われています。

話は少し横に逸れましたが、これも大衆娯楽のメッカ・浅草の一つの文化的背景として、大切に語り継いでゆきたい貴重なお話です。
皆さんにも浅草散策の際にはちょっぴり足を延ばし、こんな楽しい歴の足跡を辿って頂けたなら、とても嬉しく思います。

◆浅草演芸ホールの誕生と、フランス座・東洋劇場劇場の閉鎖

順風満帆な演芸ホールとは対照的に、テレビ界に有能なコメディアンを根こそぎ持っていかれてしまった形の東洋劇場は、衰退の一途を辿りました。かつて演劇青年だった父が、浅草喜劇復権の願いを込めて開設した大切な劇場ではありましたが、時代の波には逆らえず、フランス座の後を追うようにして昭和43年、ついに幕を下ろすこととなってしまいました。これに伴い演芸ホールは一階に移転、そしてこの年、私は父から社長の椅子を引き継いだのです。
 
早いものであれから約半世紀もの月日が経ちましたが、おかげさまで浅草演芸ホールは、今日も満員御礼!こうして歴史的にも落語と縁の深い地域に寄席を設け、定着させることが出来たのも、ひとえに浅草の皆さまの温かい支援の賜物。この場を借りて、心よりの感謝を申し上げます。
 
ところで、演芸ホールが一階に降りた後、空いた上階はどうなったのか?…そこには、また様々な展開が待ち受けているのですが…続きは、次回お話しいたましょう!

(口述筆記:高橋まい子)

※掲載写真の無断使用を固く禁じます。

浅草演芸ホール

【浅草演芸ホール】浅草唯一の落語定席 明治17年から続く浅草笑いの伝統!

浅草演芸ホールは、鈴本演芸場(上野)、新宿末廣亭、池袋演芸場とならぶ、東京の「落語定席」のひとつです。
「落語定席」とは、1年365日、休まずいつでも落語の公演を行っている劇場のことで「寄席(よせ)」とも呼びます。
昭和39(1964)年のオープン以来、10 日替わりで落語協会と落語芸術協会が交互に公演を行っています。
落語のほかにも、漫才、漫談、コント、マジック、紙切り、曲芸、ものまねなど、バラエティーに富んだ番組をご用意しています。
昼の部と夜の部は、原則として入替えがありませんので、お好きな時間においでになって、心ゆくまで「演芸」をお楽しみいただけます。
萩本欽一やビートたけしなどを輩出した、お笑いの殿堂「浅草演芸ホール」に、是非一度お越しください。


浅草演芸ホール〜公式ページ