東洋興業会長(浅草フランス座演芸場東洋館) 松倉久幸さんの浅草六区芸能伝<第8回>「坂上二郎(さかがみじろう)」
前回は、欽ちゃんこと萩本欽一が新設された東洋劇場の研究生として入ってきたこと、東八郎の指導によりその才能を徐々に開花させはじめたこと、そして上階に移転したフランス座で活躍していた先輩芸人・安藤ロールとの出逢いの場面までをお話しました。
さて、この安藤ロールなる人物は、一体誰なのか?後に欽ちゃんとコント55号を結成し、大ブームを巻き起こすことになる運命の相方“二郎さん”…といえば、もうおわかりですね。
坂上二郎(さかがみじろう・本名:同)は昭和9年、鹿児島県鹿児島市生まれ。美声の持ち主で、歌の大好きな少年でした。中学卒業後、一度は地元の百貨店に就職したのですが、「のど自慢素人演芸会」で優勝したのをきっかけに歌手を夢見て上京。当代の人気歌手・青木光一の付き人兼司会者となり、一緒に全国を旅しながら修行に励んだものの、残念なことに歌手としてはさっぱり芽が出ず、むしろ司会で鍛えた喋りのほうに活路を求め、コメディアンへと転向したのです。ドサ回り時代に苦労を重ねてきただけあって、とても謙虚で好感の持てる人柄でした。
坂上が入ってきた当時の座長は、とぼけた芸風で人気を博したベテランコメディアンの安部昇二。彼は長きにわたりフランス座に在籍し、後進の指導や経営の面でも力を発揮してくれた人物ですが、最大の功績はやはり、坂上二郎の才能を見出し、一流の芸人に育て上げたことでしょう。萩本の鋭いツッコミが冴え渡ったのも、坂上の受け手としての力量があったからこそ。その天才的なボケ方は、間違いなく恩師・アベショウから受け継いだものでした。安部なくしては、コント55号の誕生はあり得なかったといっても過言ではありません。
星の数ほどいるコメディアンの中で、本物の星になれるのは、ほんの一握り。しかしそのスターたちは、テレビのような派手な表舞台で日の目を見ることはなくとも、陰ながら貢献してくれた安部のような者の存在があったからこそ、羽ばたいて行ったのです。
余談ではありますが、そんないぶし銀のような浅草芸人達が大勢いたことも、皆さんの記憶の中に留めて頂ければ、大変嬉しく思います。