~そういう環境の中で接してきたものを、善悪のジャッジなくごく自然に吸収しながら成長してきた東の芸には、やはり他の者には出し得ない独特の味がありました。演技力やセリフの妙で客を唸らせるというタイプではなく、飛んだり跳ねたり、とにかく舞台を縦横無尽に走り回って動きで魅せるドタバタ系の芸風でしたから、本当に楽しくて素直に笑えるのですが、しかしどんなバカをやっても薄っぺらにならないのは流石だなぁと、感心させられたものです。
街にカラーがあるように、笑いにもその土地の背景や文化に根差した特色があります。浅草喜劇の特徴は、洒落と人情とお色気。芸人たちはそのエッセンスを掴もうと、必死になって先人の芸を研究したり、映画や舞台を観て勉強したり、遊んだり(遊びだって、立派な勉強!)するわけですが、東の場合はそのエッセンスがもともと体に染みこんでいたわけですから、鬼に金棒です。特に、偉大な浅草喜劇人・エノケンの影響は、やはり大きかったのではないでしょうか。おどけた調子で舞台の上を右へ左へと動き回る東の姿が、ふとエノケンに重なるようなこともありました。芸とは、こんな風にして自然に次世代へと引き継がれてゆくものなのかも知れません。
浅草の伝統的な笑いを体現できる素質を持った少年と巡り会い、東八郎という素晴らしいコメディアンを育てられたことは、わが社にとっても、浅草にとっても、財産だったと思います。
ところで、東がフランス座で活躍していた時代は、六区の興行がピンチに立たされ始めた大変な時期でもありました。テレビの普及による芸人たちの引き抜き、映画や軽劇の衰退ももちろん痛かったのですが、さらに深刻なダメージとなったのは、昭和33年4月1日に施行された売春防止法に伴う吉原の消滅です。隣接する盛り場同士、夜の浅草六区興行街と吉原は連動しているようなところがありましたから、一方が消滅したことでもう片方が弱体化するのは、いわば自然の成り行きです。
盛況が続いていたフランス座ではありましたが、街全体を覆い始めたこの暗雲を、見過ごす訳にはゆきません。将来に備え、何らかの対策を打つ必要に迫られました。こうした流れの中、フランス座は昭和34年に大改装を行い、新たに「東洋劇場」を増設したのです。
その頃、かつての東を彷彿とさせるような可愛らしい少年が、東洋興業に入ってきました。彼はオープンしたばかりの東洋劇場に研究生として採用されたのですが、ちょうど同じ時期に同劇場に移動となった東と、運命の出会いを果たすのです。面倒見のよい東のきめ細かな指導により、彼はゆっくりと開花してゆくのですが…“欽坊”と親しまれたこの少年の名は、萩本欽一。そう、押しも押されぬトップスターとなった、欽ちゃんです。次回、お楽しみに!
松倉久幸(浅草演芸ホール)
(口述筆記:高橋まい子)
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