3代目座長を務めた長門勇は 昭和7年、岡山県生まれ。高校を中退し、たまたま倉敷に来ていた旅回りの一座に飛び込み、一緒に上京したそうです。浅草でいくつかの小劇場の舞台を踏んだのち、ロック座の所属となりました。フランス座に移って来たのは、2代目座長を務めていた渥美清が肺結核を患い、長期療養を余儀なくされた昭和29年のことです。
芸人とは、概してアグレッシブで、時には人を押しのけてでも前へ前へと出たがるものです。ところが長門にはそういったところがまるでなく、きわめて温厚で優しい人柄。この世界においてその控えめな性格はある意味異色で、逆に目立っていましたね(笑)。八波や渥美のように、他を圧倒するようなタイプとはまた違う、観る者をいつの間にか引き込んでゆくような魅力を持つコメディアンでした。
長門がフランス座に入ってきた前年、昭和28年はテレビ放送が開始された年であり、その影響は浅草芸人の間にもあっという間に押し寄せていました。長門にもちょこちょことテレビの仕事が舞い込みましたが、実力があるにもかかわらず、なかなか売れません。八波は前述のようにスター街道まっしぐら、病気から復帰した渥美にも売れる気配が見え始め、後輩の中にも活躍する者が現れ…、当然焦りはあったはずなのに、そんな素振りはおくびにも出さず、いつでも穏やかな彼。そういう所が私も大好きだったのですが、芸人としてはむしろ優しすぎるその性格が災いし、このまま日の目を見ずに終わってしまうのではないか…という不安がなくもなかったというのは、正直なところです。
しかし、見ている人はちゃんと見ているものなのですね。彼の最大の持ち味であるその人間味溢れるキャラクターを評価してくれる監督が現れ、フランス座を卒業した数年、役者として見事に花開きました。
出世作となったテレビ時代劇「三匹の侍」の劇中で長門が話す温かみのある岡山弁は、彼の人柄そのままを表し、役により一層の深みを加えていました。私はそれを聞くたび、かつてフランス座の舞台でもふと出てきてしまう岡山弁を仲間たちにからかわれ、それでも終始にこにこしていた彼の笑顔を、懐かしく思い出したものです。
自分を育ててくれた街への恩を忘れず、売れっ子になってからも頻繁に浅草に顔を出してくれた長門。その姿勢は終生変わることはなく、長門が帰ってくると聞けば、その人柄を慕うかつての仲間や後輩たちが、いつでも大勢集まって来ましたっけ。人を押しのけることなく、周囲への思いやりを大切にしつつも、スターとして大成した長門勇。人間性も超一流の、印象深い浅草芸人でした。
このようにして、八波や長門ら偉大なる先輩が暗中模索しながら切り拓いてくれた、映像世界への道筋。けれども無論、どんなに才能のある人材でも、厳しい下積み時代をすっとばして一足飛びにスターになれる訳はありません。実演舞台での経験を重ね、先輩たちから多くを学び、野次るお客さんとの絡みで鍛えられ(笑)、ちょっとやそっとのことではへこたれない実力を培ってゆく。それこそが浅草芸人の底力であり、われわれの誇りなのです。
さぁ、時代は進み、昭和34年の皇太子殿下(現天皇陛下)・美智子妃殿下のご成
婚パレード、昭和39年の東京オリンピックなどに伴い、テレビは加速度的に一般家庭にも浸透してゆきました。それに反比例して、浅草六区興行街はじわじわと苦境に立たされてゆくことになるのですが、なんのなんの、逞しきフランス座の面々の奮闘は、まだまだこれからです…!
松倉久幸(浅草演芸ホール)
(口述筆記:高橋まい子)
※掲載写真の無断使用を固く禁じます。