もちろん、落語とて例外ではありません。
なんせ、江戸時代の町人文化に多く題材をとる芸の性質上、その演目は、遊郭・妾・飲酒・間男…等々、いわゆる“不謹慎なもの”のオンパレードだったのですから(笑)。
落語界の幹部たちは、いち早く自粛の方向性を示し、協議を重ねた末、時局に相応しくないと思われる演目53種を「禁演落語」に指定しました。
対象になったのは、お色気関係、不道徳な内容のもの、残酷なもの等が中心でしたが、なかには「え?どうしてこれがいけないの?」というような噺もありました。
例えば、親子の絆を描いた人情噺「子別れ」もそうです。現代感覚でいえば不可解な気もしますが、戦時下においては、“家族の情など断ち切って、お国のために戦うべき”という発想だったのでしょうか。この他にも、名作といわれるような有名な演目が、数多含まれていました。
いずれにせよ、慣れ親しんだ噺が高座から消えてしまったのは、お客さんにとっても大変悲しい出来事でしたが、噺家たちにとってもまた、相当な痛手だったであろうことは、想像に難くありません。
このようないきさつで、禁演落語の台本53種は、かねてより芸界の信仰が篤かった熊谷稲荷のある、本法寺の一角に納められることとなりました。あたかも死者を葬るように手厚く、立派な石碑を建てて。
それにしても、上演出来なくなった噺を故人に見立ててお墓を作り弔ってあげるなんて、いかにも落語界らしい、捻りの効いた発想だと思いませんか?
そこには、たとえどんな状況下にあってもユーモアを忘れない芸人魂と、ささやかなレジスタンスとが垣間見えるような気がします。
しかし禁演落語たちは、死んだ訳ではありませんでした。これは“永眠”ではなく、“仮眠”だったのです。
終戦から約1年が経過し、世の中に復興の兆しが見え始めた昭和21年9月30日、「禁演落語復活祭」と称し、封印されていた台本53種は、5年間に渡る長い眠りから解き放たれたのです。
翌年には、仇討ちもの等を中心とする27演目が軍国主義的、暴力的とみなされ、GHQの指示により再びななし塚へ葬られるという憂き目にも遭いましたが、それも昭和28年には、占領体制の終了に伴い、自然解除となりました。
12年間に及ぶ役目を果たし終えたはなし塚は、落語界の故人を弔い、世の中の平和を見守りながら、今も変わらずひっそりと佇み続けているのです。
本法寺では、はなし塚建立60周年の節目となる平成13年、落語芸術協会による法要が執り行われ、翌14年からは、毎年8月末に「はなし塚まつり」が開催されるようになりました。落語界の発展を祈りつつ、戦争に翻弄され、表現の自由を奪われた苦難の歴史を後世に伝え、“もう二度と、禁演落語を作らねばならぬ世の中にはするまいぞ”という、切なる願いを込めて。
法要が終わると、噺家たちはそろいの浴衣姿で街へ繰り出し、人力車も交えての賑やかなパレードが行われます。その様子は、いかにも浅草の夏らしく、何と
も言えない風情に包まれているのです。
古くから各種芸能の歴史が刻まれた浅草界隈には、それらに因んだ興味深い行事やゆかりの場所が、大小さまざまに存在しているのですが、残念ながら、地元の人にさえあまり知られていないものもい多いのが現状です。それは、あまりにも勿体ないこと。幾多の困難を乗り越え、今日まで継承されてきた伝統は、この街の宝なのですから。
そんな思いから今後は、新しいテーマのひとつとして、台東区に伝わる芸能関連の行事やお祭りを、その背景にある歴史とともにご紹介したいと考えています。もちろんこれまで通り、浅草芸人たちの愉快なエピソード等も交えながら、笑いとともに浅草大衆文化の歴史を掘り下げてゆきたいと思いますので、あらためまどうぞよろしくお願いいたします。
浅草へお来しの際には、冊子「月刊浅草」を毎号持ち帰ることも忘れず(笑)、日を追うごとに増えてくるであろう内外からのお客さまに、ぜひとも浅草の奥深い魅力を、教えてあげて下さいね!
(口述筆記:高橋まい子)
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