東洋興業会長(浅草フランス座演芸場東洋館)松倉久幸さんの浅草六区芸能伝<第21回>「田谷力三(たやりきぞう)」「藤原義江(ふじわらよしえ)」「町田金嶺(まちだきんれい)」
前回の取材時、記事に添える写真を探そうと久々に古いアルバムを開いたところ、ずいぶん貴重な写真が多数残されていることに、あらためて感慨を覚えました。
殊に興味深く、心惹かれたのは、往年の浅草オペラの大スター・田谷力三、町田金嶺、藤原義江らの姿。
奇しくもこの秋、2年前に大好評を博した浅草オペラ「歌と活弁士で誘う ああ夢の街 浅草!」の再演が決定し(10月19日~11月14日)、全16公演のうち、11公演を東洋館で開催することとなりました。今回は、オープニング公演(10月19日・旧東京音楽学校奏楽堂)が江戸まちたいとう芸楽祭の一環として組み込まれていることも、目玉の一つです。これを機に、のちの浅草大衆芸能に多大な影響を与えた浅草オペラの世界観とその功績を、幅広い世代の方に知って頂けたら、との願いを込めて企画しました。
今回は、本公演にあやかって、年配の方には懐かしく、若い方には斬新なカルチャー、浅草オペラの魅力を、たっぷりご紹介したいと思います。
“浅草オペラ”という言葉は知っていても、具体的にそれがどんなものだったのかは、よく解らない…今となっては、そういう方が多くなりました。私は現在83歳ですが、おそらく我々が、生の舞台を観たことのある最後の世代ではないでしょうか。わが社に現存する田谷らの写真も、戦後に撮影されたものですから、すでに最盛期からはずいぶん遠ざかった頃の姿ということになります。
浅草オペラの黄金期は、大正時代。一昔どころか、元号でいえば実に“三昔”も前ですね(笑)。
時は、大正5年。アメリカ仕込みのダンサー・高木徳子が自身の一座を旗揚げし、浅草公園六区(現在の六区興行街)で10日間の公演を行い、成功を収めます。その後、高木は西洋文化に精通した若き演出家・伊庭孝とともに「歌舞劇協会」を結成、翌年には再び浅草へ舞い戻り、常盤座にてオペラを上演、大ヒットを飛ばしました。
これが、浅草オペラの始まりと言われています。
オペラは、明治時代に日本に入ってきましたが、当時はあくまでも上流階級の楽しみであり、一般庶民とはまるで無縁のものでした。大正になり、丸の内の帝国劇場や赤坂のローヤル館などで上演されるようになったものの、興行的には、さっぱりでした。そりゃあ当時の日本人にとっては、見知らぬお国の格式高い歌劇など、あまりにも非日常的で、到底受け入れられなかったのも道理です。
ところが、浅草では、正統派オペラの堅苦しさをすべて取っ払い、歌詞もぐっと砕けた日本語に置き換えて歌謡曲風に仕立て直したんです。第一、イタリア語の原曲で歌ったって、聴いてるほうにしてみたら、訳がわからないですしね(笑)。流行歌や民謡までも取り入れながら、親しみやすさを前面に打ち出したのが功を奏し、大当たりしたのです。料金をうんと安くしたこともあり、瞬く間に庶民の間で流行の兆しを見せ始めました。
その流れに拍車をかけ、浅草オペラを空前の大ブームへと導いたのは、何といっても、田谷力三というスーパースターの存在に他なりません。
“田力”の愛称で名を馳せた田谷力三(明治32年~昭和63年)は、東京は神田の生まれ。10歳の頃に入った三越少年音楽隊でその美声を認められ、弱冠18歳にしてオペラ歌手デビューを果たします。当初はローヤル館に出演していましたが、やがて劇場が経営不振に陥ったため、軸足を浅草へと移したのです。
本来お堅い芸術家であるはずのオペラ歌手が、庶民的な浅草の地で受け入れられ、爆発的な人気を得たのは、どんなに砕けたアレンジも的確に表現してしまう力量に加え、観客を惹きつけてやまない人間的魅力、天性のスター性を持ち合わせていたからです。彼が舞台に上がると、客席からは”タヤ!タヤ!タヤ!”と、大きな声援が飛んだそうです。
田谷の歌声に感動し、この世界に飛び込んだのが、藤原義江(明治31年~昭和51年)。新国劇俳優からの転身という異色の経歴ゆえ、当初は技量が伴わず苦労したようですが、舞台映えする美しい容姿も味方し、浅草オペラを代表するスターの一人となりました。のちに、現・日本オペラ振興会の前進となる藤原歌劇団を創立したことでも知られ、日本でのオペラ普及に尽力した大功労者ですが、その素顔は良くも悪くも人間味に溢れ(笑)、大変気さくな人柄だったそうです。そんな一面が、浅草っ子に愛された理由だったのかも知れませんね。
そしてもう一人、ぜひとも記憶に留めて頂きたいのが、町田金嶺(明治32年~昭和57年)。田谷や藤原ほど名を残した訳ではありませんが、活躍した時期も年齢もほぼ同じ、彼らに引けを取らないくらいの売れっ子でした。
私の父親とゆかりのあった彼は、戦後、浅草オペラがすっかり衰退してしまった後、、東洋興業の社員となり、ロック座、フランス座の支配人を長く務めてくれました。当時、往年の大スターが劇場支配人に就任した、とマスコミを賑わせたんですよ。なかなかの人格者で誰からも慕われ、”キンレイさんがいるなら、チョット寄ってみようか”なんて人も結構いて。現役時代も、支配人になってからも、ずっと人気者でした。その頃にはさすがにもう、舞台に立つことはありませんでしたけれどね。
オペラといえば、ちょいとおすましなんかして(笑)、静かに行儀よく鑑賞するイメージでしょう?でも、浅草においては、そうはならなかったんですね。花形スターが登場すれば、その名前を連呼したり、お客さんも一緒になって、大声で合唱したり。果ては親衛隊さながらの熱狂的なファンまで出現し、“ペラゴロ”(オペラ狂いのゴロツキ、の意)なる言葉さえ誕生しました。
演者と観客とが一体になって場の空気を堪能するフランクさこそが、浅草オペラ最大の魅力であり、真骨頂でした。
そして、そのスピリットは時を超え、今なお浅草大衆芸能の中に、脈々と流れ続けているのです。
今回取り上げた浅草オペラのように、一時代を築きながらも時の砂に埋もれかけていたり、忘れ去られてしまいそうな文化が、浅草には、他にも多くあります。そういう素晴らしいものを後世に語り継ぎ、繋いでゆくのも我々の使命と思い、ひとつずつ紹介してゆくことが出来れば、幸いです。
(口述筆記:高橋まい子)
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